iM@S架空戦記を中心としたニコマスの感想サイトです。

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2009年下半期ニコマス二十選 推薦動画詳論 : アイドルマスター サクラ大戦 「御旗のもとに」全面改訂版
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 このエントリは特殊な形式に則って書かれていますので、
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 ぴっかりP
 

 えこPの「ロケットガール」以来、「いかにアイドルたちをゲーム中のステージから解放するか」というテーマが、ニコマスPVの大きなテーマの一つだったように思う。それは七夕革命を経て一つの大きな流れを形成するが、同じくえこPの「私は忍者」「魔法をかけて」に代表される「ステージ上でどれだけ面白いことをするか」について、ぴっかりPは一つの新しい形を示した。といっても、実はぴっかりPはデビューから約一年半に渡って、「サクラ大戦の曲を使ったステージ系PV」だけを無骨に作り続けてきた、まさに職人中の職人なのである。サクラ大戦のイメージをアイマスで再現するため、彼が燃やし続けたその執念はすさまじく、この「御旗のもとに 全面改訂版」に至って、「ステージ系PVは過去の形式」という素人の私の中にこびりついていた最後の邪念が消し飛んだ。「ステージ上に5人いたらいいな」「あのキャラが3Dで踊ってくれたらいいな」などなど、誰もが一度は思い浮かべる「夢」を、彼はステージ上に詰め込み、そして、花開かせてくれたのである。
 しかし彼の場合、まず技術があって、それを披露するのではない。見せたい絵があって、そのために技術を使うのだ。だからこの作品において、我々はそこに使われている技術に驚くのではなく、その実現された画像に驚くのだ。この思想は五人が見せるダンスのフォーメーションにおいて最も真価を発揮する。これまでも四人以上が一つの画面上で踊る動画はあったが、そのほとんどは、同時に同じダンスを踊るものであり、「沢山の人間が踊っている」という壮観で視聴者を圧倒することを狙うものが多かった。これはayakanP(仮名)の「娘々サービスメドレー」や、まんまPの「スーパーアイドルマスターOG ORIGINAL GENERATIONS」などの名作でも同様である。
 しかし、ぴっかりPがこの作品で強く強調するのは、2:17からの一連のシークエンスに見られる「ダンスをずらすことによって生まれる面白さ」である。これはけまり部Pも得意とする技であって、けっしてぴっかりPの専売特許ではないが、この作品では彼なりの独特な使い方をしており、その効果は抜群だ。まず2:20では一定間隔で動きをずらすことによって、伝言ゲームのように同じ所作が連鎖していく面白さがある。そしてその後のダンスでは、五人が同じ動きをするのだが、若干センターの美希の動きが、他の四人に先行している。このことによって、あたかも実際のステージで「四人がセンターの美希の動きを見ながら動いている」かのようなタイムラグが生ずるのだ。この「ずれ」が生じることによって、驚くべきことに、五人の動きが、全く同じタイミングで動くよりも美しく見えるのである。2:27からの、穏やかな風にたなびくかのような、五人のやさしい手の動きはどうだろう。これが人間の感性というものなのかもしれない。北朝鮮のマスゲームのような、人間性を抹殺することで得られた機械的な動きの集合に我々はさしたる美を感じないが、オーケストラのバイオリンのように、少しずつ異なった、しかしどれも磨きあげられた音の束には、比類ない美しさを感じる。その「人間的美しさ」のかけらを、ぴっかりPはステージ系MADにも持ち込んでくれたのかもしれない。

 これらの建物の各部材には、どこにも規格にはまったものはありませんのや。千個もある斗にしても、並んだ柱にしても同じものは一本もありませんのや。よく見ましたら、それぞれが不揃いなのがわかりまっせ。どれもみんな職人が精魂を込めて造ったものです。それがあの自然のなかに美しく建ってまっしゃろ。不揃いながら調和が取れてますのや。すべてを規格品で、みんな同じものが並んでもこの美しさはできませんで。不揃いやからいいんです。
 人間も同じです。自然には一つとして同じものがないんですから、それを調和させていくのがわれわれの知恵です。

 西岡常一(宮大工)1908-1995

 そしてこの動画最大の見せ場、3:07からのシークエンスがやってくる。五人が踊るのは同じ「目が逢う瞬間」のダンスなのだが、他の四人に対して、センターの美希だけ、踊っている箇所が全く違う。そして美希だけが後方へ下がり、「立つ勇姿?♪」の歌に合わせて四人が二度胸をこするような動作をした後に両腕を前に出すのだが、美希も二度頬を撫でるような動作をした後、片腕を前に出すのである! これはもう奇跡だ。同じ曲のダンスの中からあるタイミングで非常によく似た動きを三回連続でする箇所を探し出し、それを四人と一人に割り振る。その結果、四人が同じ動きで一種の「バックダンサー」を形成しつつも、センターである美希は「よく似ているが別の動き」で他の四人に「合わせた」後、一人列を離れ、後方の闇へと消えていくのである。
 先程「ずれ」の美しさについて書いたが、これはもう「ずれ」どころではない「独立」の動きだ。3:07から3:19までの間、美希は他の四人とは全く別個の、独立した存在として振る舞う。普通に考えれば、それは美希に他の四人とは全く異なるダンスをさせればいいだけだ。しかしそれでは、ただダンスが違うだけで、美希が一人で「孤立」しているにすぎない。この動画のすごいところは、美希を他の四人から「独立」させつつ、3:10からの三回の動きでは他の四人に違う動きで「シンクロ」させたことだ。時に「独立」で動き、時に他の四人に「合わせる」。それが出来るということは、要するに、生きているということだ。この美希は生きている! だからこそこのシークエンスから得られる感動はあたたかく、そこには血の通ったぬくもりがあるのだ。嗚呼、ぴっかりP万歳! 人間万歳!
 だが我々は、やがて恐ろしい現実にも気付く。3:07から3:19までの一連のシークエンスにおいて、美希と四人の二種類のダンスは、一度も編集されていない。長回しなのだ。なんのことはない。美希は死んでいた。「合わせた」わけでもなんでもなかった。美希は、3Dのポリゴンで描かれた、二次元の「映像」だった。美希は死んでいた。美希は死んでいる。動画の中で、生き生きと、踊り、歌う、この美希は――そう、死んでいるのである。

 「キャラ」は、一種の記号にすぎない。映像に過ぎない。あるいは、概念に過ぎない。しかし、我々「オタク」と呼ばれる化外の民は、それが命を持った存在であるかのように、愛する。自分が抱きしめたいと願う相手が、命を持った存在ではないと知りながら。この相反する感情の相克が、この動画のステージ上では見事に表現されている(ぴっかりPがそれを表現しようとした、という意味ではない)。愛しているが死んでいるのか、死んでいるから愛しているのか。その忌むべき歪んだ愛情にも美しい側面があるとすれば、それはこの動画の中にある。死んでいるが、生きている。それが「キャラ」というものだ。生きているが、死んでいる。それが二次元というものだ!
 ああしかし、二次元とは、なんと儚くも、美しい夢なのだろうか。永遠にこの夢の中にいたいと思うことは一度や二度ではないが、しかし、それは人間としての死以外を意味しない。この動画のもつ温かさと、同時に持つ切なさ。その切なさの方を噛みしめて、我々は、未来へと向かって進んで行くべきだ。
 さあ、行くと決まったら、歌おうじゃないか。丁度いい歌がある。曲の始まりは、そう、確かこうだった――。

 立ていざ立ち上がれ 涙拭き
 イバラの道さえ 突き進む――
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2009年下半期ニコマス二十選 推薦動画詳論 : アイドルマスター×三谷幸喜『ラヂオの時間』 第1幕
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 爽快P にぎりがくさいP
 

 視覚的な要素を重視した、新時代の架空戦記である。動画全体の監督でもあるシナリオ担当の爽快Pは、ニコマスのアルファブロガーを経てPV系のPとしてデビュー、「音」に対する独自の感性で個性的なPVを世に送り出しつつ、本作品で架空戦記にもデビューしたという異色の経歴の持ち主だ。この架空戦記ではPVの視覚性と舞台演劇の「空気」を架空戦記に持ち込み、新鮮なスタイルで我々架空戦記民を驚かせた。メイン画面にキャラのドットが映し出され、サブ画面にアイマスキャラの立ち絵で各キャラの表情が示されるのは、ておくれPの「アイマスクエスト?」を思い出すが、表情選択のセンスは全く異なり、比較的マメに表情を切り替えるのが上手く楽しいておくれPに対して、丁寧に表情を切り替えつつも、ここぞという時では「第三幕」1:22からの春香や、「第四幕」3:20からの雪歩など、長時間表情を固定して効果を出すという「必殺技」を持っているのが爽快Pだ。また糸冬Pと同じく曲の長回しを好むところがあり、長時間変わらない背景と、長時間変わらない音楽が、何とも不思議な雰囲気を醸し出している。先程から「長時間」という単語を連発しているが、それこそが爽快Pの持ち味なのであり、彼は瞬発的なギャグのキレや、シリアスなイベントの感動の破壊力で勝負するPではないように思う。極めてマクロな視点でシナリオとイベントを構成しているため、一見とっつきにくいようにも見えるが、腰をすえてじっくりと視聴すれば、本作が掬すべき滋味に溢れた名作であることがよく分かるだろう。また常に画面全体が「絵」としてバランスが取れているようにも感じるが、筆者に絵の素養があるわけではなく、これはPV出身のPであるという事前情報から来る先入観かもしれない。しかし、どこか淡い色合いの清潔な画面は、やはり作者特有の個性を感じるところである。
 ドット絵担当のにぎりがくさいPは、タクティクスオウガの「タクティクスオウガ風に アイドルマスター 「団結」」でよく知られる、ニコマスが誇る最高のドット絵師の一人だ。当初はあふれる表現欲で雪歩の穴掘りなどをド派手に演出してみせた(第二幕3:50から)し、本来それこそがにぎりがくさいPの持ち味なのだが、やがて抑制的な爽快Pの芸風に合わせて、「第四幕」では2:13からの通称「メットリレー」をやってみせた。通常、ドット絵を使って楽しい動きを表現するには大量のドット絵を打つ必要があるため、いわゆる「ドット芸」で大向こうを唸らせようと思ったら、どうしても短時間に集中してやることが多いように思う。しかしこの「メットリレー」では、長時間に渡って「ドット芸」の妙味と楽しさがずっと持続する。このシーンのドット絵を制作するうえで、どういうところが大変で、どういうところが簡単なのかは分からないが、通常「よく描いたなあ」という作者の「苦労」にのみ評価が集中しやすいドット芸の中で、ここまでドット絵師の努力よりも「ドットの動きそのもの」が評価され、驚かれ、感動される作品も少ないだろう。あくまでドット絵の素人からの視点だが、やはり第二幕の雪歩の穴掘りよりも、第四幕の「メットリレー」のほうが、爽快Pの芸風によりよく馴染み、また効果も上がっているように思う。このようににぎりがくさいPは、硬軟合わせ持つ芸の幅の広さを見せつけ、視聴者の「またドットで何かやってくれるのではないか」との期待に、見事に応え続けている。
 この架空戦記は「第一幕」から、形式や芸風そのものは爽快P、にぎりがくさいPの双方とも高いレベルにあったのだが、一話ごとに、話の進むテンポや、ドット芸とシナリオのバランスなどが、少しずつ噛みあっていく。しかもこの二人の技の交わりは、どこか互いに間合いを量り合っているようなクールさがある。仲良しグループが和気あいあいと作った作品とも、複数の人間が部品を持ち寄って作った作品とも違う。二人の個性はあくまで個として独立しており、融け合うようなことはないが、一方で作品は、単純な要素の総和を超える「+α」を見事に獲得している。ここには慣れ合いでも、単純な分業でもない、二人のドライな個性の対決があり、技を尽くし合う職人同士の駆け引きがある。
 今後さらに加速していくであろう物語の中で、才気溢れる両者がどのような美しい二重螺旋を描いてくれるのだろうか。一人のiM@S架空戦記ファンとして、この作品を二十選の一に推さざるを得ない。

2009年下半期ニコマス二十選 推薦動画詳論 : アイドルマスター 千早 「目が逢う瞬間」
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 sabishiroP
 

 sabishiroPといえば、「壁に映った昨日」でのブレイクが記憶に新しい。私も文学性の観点からそちらを推薦しようか迷ったが、敢えて彼と出会えた最初の作品である、この「目が逢う瞬間」を推薦する。
 1:23まではタメの段階で、そこから音楽は爆発するのだが、画面は色合いと千早の服しか変わっていない。にも関わらず、千早の目元のアップを一枚挟むだけで、心のギアが一速上がる。ここでセーラー服は過去を、私服は現在を表していると考えるのが順当だろう。ここでは過去と現在、あるいは回想と現実の断絶が起こっていると見てよいのだが、過去の画面が海底のような色に暗く沈んでいるのに対して、現在の画面がまばゆく輝いていることは見逃せない。どこか幻想的な「現在」の画面は、単純に過去と対比した結果の実存的な「現在」とは呼べない「何か」だが、その「何か」と「単純な現在」との齟齬がもたらすただごとでない緊迫感が、1:23からの約90秒間を支えている。
 やがて音楽はもう一つの山場を迎え、2:57に歌が途切れると、荒ぶるドラムの鼓動に乗って、前半ではすっきりと分かれていたセーラー服の千早と私服の千早が、ここでは接近と混濁を始める。打ち砕かれた過去と現在の無数のかけらは、互いにひかれ合い、錯綜し、鳴動する世界の中で一体化しようとさえする。3:02では、ついに過去の世界からセーラー服を着た千早の姿が消える。時の流れは歪み、あざなわれ、3:04で口を閉じた現在の千早の動きを、過去の千早が空虚な笑みを浮かべながらトレースする。そう、ここでこの動画の主体が分かる。現在が過去を忘れられないのではない。妖しい意志を持った過去が主体性を持って、輝く現在を侵食しようとしているのだ。現在が常に過去を「所有している」などというのは、先入観に基づくご都合主義の幻想にすぎない。この現在と過去との脆弱な主従関係の容易な逆転を、この動画は見事に視覚化することに成功しているのである。

私は現在であり 今日を担う者であり 過去の奴隷である

 ――「ウィザードリィ5 災禍の中心」より

 作者のセンスも暴走を始める。3:08の現在の千早が後頭部しか映っていないカットは、研ぎ澄まされた感性の鋭利な刃先だ。それにえぐられる我ら凡愚の感性は痛みさえ感じず、むしろ己が血潮の温かさに生命の脈動を体感するのだ。3:12からは同じ動作を過去と現在が繰り返すが、この回転する動作は示唆的である。哀れな小羊Pの「レプリカーレ」で執拗かつ象徴的に用いられているように、これは輪廻転生のような、終りと始まりが結びついた概念を表すことが多い。そしてこれ以降、過去の千早は一度姿をひそめるのだが、このシークエンスの解釈は難しい。現在の千早が、過去の千早を「振り切った」と見るには、あまりにも超克性の描写に乏しいからだ。回転が象徴する「時は廻るもの」という概念も、一度主導権が現在の千早に戻ることを上手く説明してはくれない。結局、筆者はこのシーンに対して、十分に説得力のある解釈を附することが出来なかったことを告白するより他はない。ただ、自らの読解力の不足を恨むばかりである。
 さて、やがて千早は束の間の「現在」を取り戻したかに見えるが、4:16から再び時間は交錯し、主導権は過去の千早に渡されてしまう。過去の千早は観客に背を向け、ステージを去るべく、ゆっくりと歩き出す。ここで哀歎の情を禁じえないのは、筆者一人ではあるまい。sabishiroP自身の「壁に映った昨日」にしろ、シラカワPの傑作「空想メロウ」にしろ、ある世界で始まって、別の世界を旅した後、元の世界に戻るというのは、二つの世界を扱うMADでは最もよく見られる形式だからだ。となれば、この作品も、過去で始まった以上、過去で終わってしまうのではないか。そんな恐ろしい予感が、身を竦ませる。さやかに光輝く現在は、やはり幻にすぎなかったのか。一見従属的に見える過去こそが本当の主体で、畢竟、現在とは過去に蝕まれゆく未来の始点にすぎないのか――。そんな悔しい思いが胸をかすめる。一歩、また一歩と、遠ざかってゆく千早。だが最後の一歩で、世界は転生する。光に包まれるステージ。過去は浄化され、消滅し、光りあふれる「出口」を大写しにして、この作品は終わる。
 それは一つの救済であり、一つの絶望である。舞い狂った後に過去と現在が「帰ろう」とした場所は同じだった。過去が現在を追いかけて来るのか、それとも現在が過去を追いかけているのか。そこには「過去は序章にすぎない」などというヘーゲル的な時間理解では割り切れない、冷酷な現実がある。過去はいつでも、我々の背後にいる。振り返れば、痴れたようにきょとんとして微笑み返すだけの、その過去という存在が、我々を未来へと駆り立てるものの全てである。人が過去に溺れて前に進めなくなった時も、それに打ち勝って悠然と未来へ向かって歩を進める時も、過去は常に、3:04の千早のように、ほとんど無感情に等しい微笑みだけを浮かべて我々を見つめている。そこには悪意も何もなく、ただ――「食欲」だけがある。決して満たされることのない、飽くなき「食欲」だけが。

2009年下半期ニコマス二十選 推薦動画詳論 : 3rdワールドウォー世界IDOL大戦?第9話後編 RED CUTTINGBOARD RISING
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 庭上げP
 

 庭上げPは入れようか最後まで迷った。上半期なら間違いなく「ワールドアットウォー世界IDOL大戦 最終話後編 神々の黄昏」が歴代の全架空戦記中屈指の最終話であり、これに比肩しうるim@s架空戦記の最終話は、筆者の知る限り、宇垣Pの「天海提督の決断 最終話「旭日旗、征く」」以外にない。だから庭上げPはなんとしても入れたかったのだが、その完結した「世界IDOL大戦(?)」の続編である「世界IDOL大戦?」は、同じ上半期に投稿が始まっており、現在連載中であるうえに全話が満遍なく面白いため、これといった作品を挙げにくかった。しかし逡巡を重ねた結果、この第九話後編が選出の運びとなった。
 庭上げPは、筆者が最も嘆賞する架空戦記P、そしてニコマスPである。ニコマスPの中で一人だけ挙げろと言われたら、迷うことなく彼の名を挙げる。それは「全ニコニコ動画の投稿者の中で」と言われても、「今生きている全ての創作者の中で」と言われても変わらない。ただ「歴史上で」と言われると、言葉に詰まる。彼らニコマスPは、「歴史に名を残すかどうか」などという評価基準が、全く馴染まない領域にいるからだ。特定の貴族に仕え、日々研鑽を積んで腕を磨き、大陸に並ぶもの無しと呼ばれるフルートの名手が「芸術家」だとしたら、彼らニコマスPは、山間の寒村でときどき得意の芸を披露してくれる、「笛の上手い人」にすぎない。彼らの名前は残らないし、残す必要もない。村の連中も山を降りて都会に行けば、大芸術家の演奏に腰を抜かして感涙にむせぶのだが、彼らにとって「音楽」とは、そんな気取ったものではない。仲間の家に集まって杯を交わしながら、やんやの喝采に応えて、すっかり出来上がった「笛の上手い人」がよれよれの音程で奏でる、いつもの陽気な旋律。それが村人たちにとっての、最高の「音楽」だからだ。村人たちにとっては、この「笛の上手い人」こそが、この世で一番の「音楽家」なのである。彼が死んだら、しばらくは皆で彼のことを懐かしく話し、子や孫に話して聞かせることもあるだろうが、やがてその名は失われ、土に還る。こういった喩えは失礼なのかもしれないが、ニコマスPとは、おそらくそのような存在であり、私が彼らを篤く尊敬するのは、それゆえである。高度情報化社会の権化であり、あらゆる情報を一瞬でつなぐことによって世界をグローバル化するはずのインターネットが、同じ国に散らばる少数の同じ趣味の人間たちを強固に結びつけ、逆にこの現代社会に「山間の寒村」を創造してしまった。それが2chでいう板であり、スレであり、ニコ動でいうカテゴリであり、そしてニコマスなのである。そこで望まれるのは芸術ではなく、あくまで「芸」であり、永遠の普遍性ではなく、今この瞬間に燃え尽きるほどの、壮烈なまでの「儚さ」なのである。
 特に架空戦記やノベマスは、鑑賞のために数多くの「前提知識」を必要とするため、やがては歴史の荒波の前に忘れ去られるであろう。しかし、だからどうした? それがなんなのだ? 歴史に残らなかった感動は、程度の低いものなのか? 今この瞬間、我々が感じている、心がはじけ飛ぶほどの「面白さ」や「楽しさ」、それが次の世代に残る必要など全くない。むしろ、その感動を無理やり次の世代に「伝える」ため、子や孫の世代に洗脳教育を施そうとすることこそ罪悪であるという思想が、ニコマスの底流にはあるのだ。歴史に名を残すため、自ら「古典」たろうとする数多くのまやかしの「芸術作品」が跋扈する現代社会において、歴史に名を残すこと、子や孫にも感動できること、前提知識がなくても楽しめること、国境を超えること・・・そんな作品の陳套な「偉大さ」を自ら拒絶し、今この瞬間、ネット回線の向こう側にいる一定範囲の人間が感じる感動を最大化せんとする努力が結晶化したもの、それがニコマスなのである。歴史に名が残るかどうかなど、ここでは何の意味もないことだ。だから庭上げPの作品も、全く「偉大」ではない。液晶ディスプレイの前でマウスを握り締めながら、オタクがゲラゲラ笑って腹筋を痛める、そんな数ある「ニコニコ動画」のうちの一つにすぎない。だが、それこそが――この作品の存在意義でなくて、何であろう?
 さて、アイドルたちがゲームの登場人物を演じる架空戦記は多いが、庭上げPの世界IDOL大戦シリーズのように、アイドルが歴史上の人物を演じる例はあまり聞かない。この「アイドルが歴史上の人物を演じる」というコンセプトは、どちらかというとアイマス教養講座で一般的なもので、最も有名なものは、やはりトロツPの「アイマスで分かるソ連権力闘争」だろう。最近ではキューバ危機を扱ったマシン語Pの「iM@s 13d@ys」などが、しっかりとした作りで定評がある。しかしアイドルが歴史上の人物を演じる場合、あまりに史実を重んじすぎると、アイドルの原作設定との齟齬が問題となり、先述のトロツPなどはコメントに「このうp主はアイマスに対する愛ないだろ」などと書かれてしまった。凄惨なソ連の権力闘争を、アイドルたちに実直に演じさせた結果の悲劇である。このような「歴史上の人物をアイドルが演じる」タイプの作品には、常にアイマス原作と史実という、二つの要請の狭間で揺れ続ける宿命があると言ってよい。
 この点、庭上げPの完結した前作「世界IDOL大戦(?)」では、各アイドルは各国の政治思想や軍事思想、外交姿勢の擬人化という特性を持つ。典型的なのが千早演ずるソ連のヨシフ・チヒャーリンであろう。千早の胸の薄さは「持たざる者」のルサンチマンを想起させ、プロレタリアート独裁の共産主義によく馴染む。もちろん、これくらいなら他の作品でも当たり前にやっていることだが、この架空戦記ではアイドルを各国に配置するだけでなく、各国の思想がキャラの性格まで侵食してしまっているところに妙がある。先述のチヒャーリンはアイマス架空戦記史上屈指のおバカキャラだが、それはソ連という国の軍事・内政の、あまりの理不尽さがよくジョークになり、世界中を笑わせていることの反映である。つまり「世界IDOL大戦(?)」におけるチヒャーリンとは、「ソ連の書記長になった千早」ではなくて、「ソ連っぽい千早」なのである。だからこの作品に登場するのは、原作の千早ではなく、一般的な二次創作のように原作の千早を作者の好みにアレンジしたものでもなく、原作とは異なる「ソ連のシンボル」として転生した「チヒャーリン」という全く新しいキャラなのだ。国の擬人化には、当然「ヘタリア」という偉大な先達がおり、その影響も多分にあるだろうが、アイドルマスターという全く世界情勢とは関係のないゲームのキャラを、各国を擬人化したように割り振ってアレンジするという手法は珍しく、これはアイドルマスターと現代史、軍事、そして二次創作的翻案などが好きな者にとって、まさしく福音であった。
 こうして各国の思想や文化を体現したキャラが、各国の元首あるいは軍人として、互いに語り合い、牽制し合い、そして騙し合う。それはまさに現実の国際関係そのままであるのだが、それが「国と国」との関係でなく、国を象徴した「キャラとキャラ」との関係で表現されるところが面白いのだ。先述のヘタリアと違い、同じ第二次世界大戦を舞台にした「世界IDOL大戦(?)」では、開戦からゲーム画面などで現在の状況や戦闘の結果が逐一表示されていく。そのため、徐々に変化していく戦況の中で、各国の情勢がどのように変化していくのかが、その国を象徴するキャラたちの変化で示されるのである。
 そしてアイマスキャラの関係と、史実の国際関係とが綯交ぜ(ないまぜ)になっているため、視聴者はアイマス世界と現実世界、二つの世界が渾然一体となった「世界IDOL大戦」の世界と出会う。二つの世界が混濁することによって、歴史上の真実は、一見ねじ曲げられているかのように見える。たとえば日本は海軍の山本いお六(伊織)と陸軍のやよ下泰文(やよい)で象徴されるが、「やよいおり」の名称で親しまれるやよいと伊織の二人は、アイドルマスターの世界では、とても仲のいい二人である。これはこの配役を聞いただけでは、日本の海軍と陸軍のセクショナリズムによる対立とは相容れない「史実と相反する設定」に見える。そして実際、この「世界IDOL大戦(?)」では、やよいと伊織の二人は、史実の陸軍と海軍同様、すれ違い、そして対立するのである。それならば、なぜ陸軍と海軍を「やよいおり」の二人にしたのかという疑問が生まれるが、それはこの二人が、「本来は仲がよくなければならない二人」だからだ。
 日本人の大東亜戦争史観は、通常いわゆる「海軍善玉論」であり、史実に詳しい者であっても、陸軍を積極的に評価する者は多くない。ニコマスにも先述の宇垣Pの「天海提督の決断」や、宇垣Pの衣鉢を継ぐいそっちPの「八八艦隊偶像物語」など、海軍を主体にしたものはあっても、陸軍を主体にしたものはほとんどない。元となるゲームが少ないのもあるし、日本の軍事史上屈指の愚将である牟田口廉也中将の無能によって三個師団が全滅したインパール作戦や、ガダルカナル島への戦力の逐次投入などの破滅的な戦略の破綻は、明らかにアイマス原作の華やかな雰囲気に似合わない。将官のあまりの無能さ、戦略眼のなさが、サブキャラとしての魅力に乏しいのもあるだろう。だが、なぜか「世界IDOL大戦(?)」では、表面的には、なんと「陸軍善玉論」を取る。陸軍(やよい)が必死で各地の石油をかき集め、春閣下から補給ポイントまでもらい、爪に火をともすような節約を重ねてなけなしの補給物資を貯め込むのだが、「艦隊決戦で大打撃を与えた後、有利な条件で講話に持ち込む」という海軍の楽観論に支配された伊織が、大量の石油を使って何度も米軍に艦隊決戦を挑むのだ。それは当然毎回が大博打なので、勝つこともあるし、負けることもある。大和の打撃力は素晴らしく、名だたる戦艦を次々に轟沈させていくのだが、そんな「決戦」は、そもそも米軍の物量の前では、全く意味がなかった。コメの多くにもあるように、この作品の伊織はやよいという妻の金を使って博打に励み、スッカラカンになっては帰ってきて、また金をせびる典型的な「ダメ亭主」だ。これは当然ながら「決戦主義という誤った戦略に則って陸軍の石油を使い込んだ海軍の方が悪い。陸軍は悪くない」というような、単純な「陸軍善玉論」を主張しているのではない。陸軍の無能っぷりの前では霞みやすいが、実は海軍の取った「戦略」も、要するに、丁か半かの大博打だった。しかも石油がないから始めた戦争なのに、海軍が「決戦」に挑む度に差し出した賭け金は、石油だった。「お金が無いから、パチンコして稼ぐ」と言うようなものである。そしてこの大博打は、実は博打に見えて、博打ではなかった。「決戦の後、講話」という海軍の博打は、まずアメリカには決戦をする気がなかったし、たとえ決戦に負けても、講話する気もなかった。コメにもあるように、短期決戦に成功し、太平洋を突き進めばアメリカに厭戦気分が広がって講話に応じるだろうという勝手な思い込みが、そもそも間違っていたのである。
 このように「世界IDOL大戦(?)」では、貧乏キャラだが視聴者に可愛がられやすいやよいを陸軍に据えることにより、陸軍に対する「地味」「困窮」のイメージを「かわいさ」の方向に変えつつ、海軍を先述のように戯画化している。これが面白いのは、視聴者もやはり、普通は海軍のほうに傾いているからだろう。「世界IDOL大戦(?)」ではそのバランスを大きく逆の方に傾け、海軍の戦略の乏しさを中心に描いているが、あくまでギャグなので、嫌味がない。これがシリアスだったら、非難は轟轟だ。そしてこの二人が、石油のことで争ったり、陸軍のやよいが対潜ヘリやら強襲揚陸艦やらを保有しており、その理由が「だって、伊織ちゃんが、何にもしてくれないからです」だったりする。陸軍と海軍の官僚主義的な対立は、あくまで「すれ違い」にまで弱められ、アイドルマスターにおけるやよいと伊織の関係を知っている我々は、動画内での二人の齟齬を見る度に、「本当は二人とも、仲がいいはずなのに」と思ってしまう。それは「陸軍と海軍の仲が良かったら、もっと善戦できたはずなのに」という我々の嘆息を代言してくれていると共に、動画内においてやよいが見せる、伊織への最大限の協力を見れば、たとえ両軍が密接に協力し合っても、史実における軍事および外交上の戦略の誤りは致命的であり、単純な両軍の協力くらいではどうにもならないという悲しい現実をも表している。そこに視聴者は史実における「敗因」の複雑な相関を見るのだ。アイドルマスターの「やよいおり」を通して――。
 異なる世界が融合することにより、かえってそれぞれの世界の真実が可視化されることがある。「世界IDOL大戦(?)」はまさに、そういう作品だった。この作品も、連載開始当初は筆者にとって「まあまあ面白い架空戦記」くらいの印象だったが、後半からの追い上げは凄まじかった。当時の架空戦記において、「閣下」と言えば呂凱Pの「閣下三国志」から始まって、りんざPの「春閣下で世界統一」や、腰痛Pの「黒女王春閣下」のように、半目で溢れるカリスマを持つ一方で、たまには白いところも見せてくれるという、そんなタイプの閣下が主流だった。しかしこの「世界IDOL大戦(?)」では、見た目と口調はいわゆる「白春香」であるが、その一方で名前は「春閣下」であり、ヒトラー役であることもあって、第一話から少し言っていることが黒かった。性格的には「春香」というより、「中村先生」の影響を色濃く受けたキャラだったと言っていいだろう。そして何度かこのような黒さを見せているうちに、コメでこの「白いが黒い」春閣下を面白がる声が出てきた。庭上げPはそれを敏感に感じ取って春閣下の性格を少しずつ腹黒い方向へシフト。こうしてとんでもない出まかせを並べ、世界各国を口八丁手八丁で丸め込む「im@s架空戦記で最も腹黒い春香」がここに生まれたのである。
 ドイツの春閣下とソ連のチヒャーリンは、一見、いわゆる「はるちは」のような雰囲気がある。しかしこれは実質的にチヒャーリンの片想いであり、春閣下はこの「親友」からの信頼を利用する。各国の中でソ連の「おバカ」のイメージを受けてもっとも騙されやすい性格に育ってしまったチヒャーリンを、春閣下は毎度毎度の詭弁で篭絡し、それを信じ込んだチヒャーリンが、ソ連の戦略を滅茶苦茶にして独ソ戦が泥沼になっていく。しかしこの詭弁を振りまく春閣下の、どこか憎めない「天然の黒さ」と、それに騙されるチヒャーリンの「残念な白さ」の対比が楽しく、これはコメなどで「漫才」と呼ばれる「世界IDOL大戦(?)」の代名詞、お約束のシーンとなった。この様式美が完全に確立したのは、おそらく第十六話で、ここで春閣下が「わたしコメで、架空戦記の中でもまれに見る悪。黒春香、鬼とか言われてるけど・・・」と発言し、これ以降、春閣下はのびのびと天性の詐欺師っぷりを発揮していく。そして庭上げPはコメで春閣下への野次が飛ぶだろうと思わせるようなことをわざと春香に言わせ、それを前提にして会話を展開するなど、よりコメの反応を意識した方向へと進んでいく。最終話においては笑いの神までもが元ネタのゲームに降臨し、8ヶ月に渡って傑作への階段を駆け上がった本作は、ついにim@s架空戦記の天宮(ヴァルハラ)へと至り、永遠に光り輝く黄金柏葉剣ダイヤモンド付騎士鉄十字勲章の栄光と共に完結の日を迎えたのである。
 実は今まで、庭上げPのことをブログで書く時、彼のことをなんと呼んで賞賛したらいいか、迷うことが多かった。芸術家、巨匠、芸人、努力家、天才、鬼才、職人、達人、名人、神・・・正直に言って、どれもしっくり来ない。だがそれは当たり前で、庭上げPはコメを取り入れたり、コメでどんな反応が起こるかを織り込んで話を作ったりするなど、すぐれてニコニコ動画の特性を活かした動画作成を行う作者だ。アイマスが好きとか、軍事や世界史に一定の興味があるとか、この動画を楽しむための前提条件は一般的な漫画やアニメ、映画よりも遥かに多く、10万、100万といったマスな単位の人間を楽しませることは出来ないし、そんなことを目的としてもいない。im@s架空戦記は無数にあるが、そのほとんどが、一部の人間にのみ受ける、いわば「内輪受け」を狙った作品である。しかしその「内輪受け」の対象が、あらゆる分野、あらゆる趣味嗜好に及んでいるため、そのどれかに当てはまる人間は多い。そしてその当てはまった人間だけを狙い撃ちして楽しませるのが、im@s架空戦記というものである。それこそが庭上げPの作っているものなのだが、そんな作品を作る人間は、ニコニコ動画が登場するまで、この地球上には存在しなかった。そしてニコニコ動画が消滅する時、そんな作品は、この地球上から消え失せるのである。彼らはこのような、既存の言葉では表しようのない、新しいタイプの作品を作る創作者たちである。筆者は彼らのことを何と呼べばいいか、今まで散々考え続けたのだが、今のところ一番しっくりくる呼称は、なんとも他愛のないものだった。「ニコマスP」。「架空戦記P」。それが、彼らの名前である。笑ってしまうくらい単純な答えだが、他のどれでもないことは確かだし、我々が呼ぶ中で、彼らが一番喜んでくれる名前は、おそらくそれらだろう。
 さて、このように、彼は架空戦記の特徴を体現するような作品を作る、架空戦記Pの中の架空戦記Pである。その彼が前作「世界IDOL大戦(?)」の完結後、わずか一ヶ月半後に投稿を開始したのが、冷戦期を舞台したim@s架空戦記「世界IDOL大戦?」であり、二十選の本項で推薦する動画を含むものである。
 なぜ「世界IDOL大戦(?)」について長々と述べたのかというと、「世界IDOL大戦?」が、前作「世界IDOL大戦(?)」の続編であり、細かい配役の交代を除けば、各キャラの担当国家もあまり変わっていないからだ。一方で春香を東西ドイツに分け、作品中の春香が西ドイツのハルコール(私服)と東ドイツのハルカッカー(パンゴシ)の二人になっているのは面白い。普通ならこの二人がいわゆる「白春香」と「黒春香」として対立しそうなものだが、「でもなんだか前作のイメージで白い方が黒そう」などと書かれたコメの嫌な予感は的中し、実はどちらも言動が黒いことが、なんと第一話にして判明する。当初はこれでシナリオが真っ黒になるかと思われたが、東ドイツのハルカッカー(春香)とソ連のプチーチャン(千早)が同じ東側陣営になることで、少し状況が変わった。前作ではナチス・ドイツの春閣下が敵国ソ連の千早を篭絡していたのに対して、本作では西ドイツのハルコールは千早とは会話せず、千早の相手役は同盟国東ドイツのハルカッカーになったからだ。このハルカッカーもやはり、あらゆる手を使って千早の暗殺や東西の激突を画策するが、やはり敵対国同士の戦争から同盟国の内ゲバに変わったことと、今作ではむしろハルカッカーがプチーチャンを引き止めたり、ツッコんだりすることが増えたため、前作と比べて二人の「漫才」はあっさり目になった。しかしそれが物足りなくなったかというとそうではない。リアルタイムで週に一回投稿される前作を見ていた我々には、前作の破壊力のある濃密な「漫才」は楽しかったのだが、これは後から追いついて見始めた人が間隔を開けずに連続で視聴すると、少しこってりすぎてもたれるという難点があった。その点新しい二人の「漫才」は、前作の破壊的な面白さには至らないものの、さらりとしていてしつこくなく、何度見ても楽しい。庭上げPの大ファンである筆者も、前作を見たのは全話3?4回ずつくらいだが、今作は最低でも全話6?7回は見ている。架空戦記を何度も見返すこと自体異例だが、単品のPVでもこんなに見ることはない。かといって、いわゆる「スルメ式」の面白さでもなく、初見の時の破壊力もしっかり兼ね備えているのだから、ますますバランスのいい傑作架空戦記になっているといえよう。
 二十選でこの「第九話後編」を選んだのは、下半期に投稿された中では「世界IDOL大戦?」の特徴が最も詰め込まれているからだ。毎度お馴染みの小鳥さんの前口上から始まり、0:30からは将軍が軍人らしいカッコよさを見せるが、コメの嫌な予感は的中し、はるちは(笑)の「漫才」がやっぱり始まる。3:15からはNATOのシーンだが、本シリーズ屈指の当たり役、フランスのF・タカネ・ミッテラン(貴音)が相変わらず協力しない。この貴音は「お嬢様っぽい」ということでフランスに選ばれたのだろうが、本シリーズでは語尾が「ですわ」の別キャラになっている。プライドばかり高くて周辺各国と協調しないが、やってることは結構間抜けで自然に笑いを取ってしまう本作の貴音は、現代史におけるフランスの負の側面をユーモアたっぷりに戯画化したものだ。961プロのキャラは個性や資料に若干乏しく架空戦記でも目立ちにくいが、貴音に関しては腰痛Pのノベマス「姉、ちゃんとPしようよっ!」の貴姉やや、すっきりぽんPのノベマス「アイドル寮空室あり!」の「CV千葉繁(すっきりぽんP談)」な貴音に代表されるように、二次創作で独自のキャラ付けを施したものの人気が高いようだ。「世界IDOL大戦?」における貴音の真骨頂は、第二話における核保有国の本音ぶっちゃけで、本シリーズにおける貴音の方向性を決定付けることになった。まだご覧になってない方は、合わせて参照されたい。
 そしてこの「第九話後編」で最高のシーンが、4:09からのアメリカだ。前作ではあずさが大統領、美希が軍人だったが、今作では立場が逆になっている。前作ではあずさがおっとりしているような口調で言っていることは若干黒いというキャラ付けによって、自由と民主主義を掲げながら、実は戦争で(軍需産業が)一儲けしたいというアメリカの表と裏を描いていた。しかし今作では「強いアメリカ」を標榜したレーガン大統領を美希が演じており(R.ミッキーガン)、いわゆる「ゆとり」の彼女には、「黒さ」があまりない。その代わり美希は、自由や民主主義という言葉を口にしつつも、実際には西部劇的な目先の「正義」に基づいてそれらをないがしろにしてしまうという、悪意はないがそのおめでたさが世界中にとって迷惑な、アメリカ人の単純さ、困ったちゃんっぷりのほうを、より強く象徴している。特にこのシーンでは9.11後のJ.W.ブッシュ政権や、B.オバマ大統領のノーベル平和賞受賞を思いっきりネタにしており、それらの滑稽さや、戦争によって自国の民主主義を維持しているかのような大国の矛盾を、健全な笑いに変えることに成功している。
 6:59からは日本のシーンだ。ソ連の侵攻で南北に分割されてしまった日本だが、北日本(日本民主主義人民共和国)はやよい、南日本(日本国)は伊織が担当している。前作の説明で述べたように、これも「仲良くしなくてはいけないのに、対立してしまった二人」を表しているところが面白い。やはり北日=やよい=貧乏、南日=伊織=金持ちなのだが、北日は第二話で見るように明らかに北朝鮮を想定しており、やよいを通してかの国のネタっぷりを新しい目で見ることができる。と言っても「将軍様」はやよいなので、時に視聴者は同情してしまうのだが、それは北朝鮮の立場に対する同情でもあり、単純な善悪では割り切れない、国際情勢の複雑さを感じさせる。この「悪者のはずなのに同情してしまう」点は、先述したように前作でやよいが陸軍を担当していた時にもあったもので、庭上げP作品の一つの特徴とも言えるだろう。一方の伊織はバブル期の日本を体現するマネーの権化であり、視聴者は当時の日本の景気の良さを懐かしみながらも、その場当たり的な外交や、平和主義という名の日和っぷりに「ま、日本だし」と思いながらも、やはりため息を付いてしまう。ただ、通常アメリカやソ連に対してよく使われるこの手のカリカチュアが、日本にもしっかり適用されているところが秀逸だ。要するに、どこの国も笑えるくらい間抜けなのには何の変りもなく、しかしながら、それが国際関係というものの真実の姿なのである。日本や特定の国家だけを「善玉」にしないところに、一見滑稽で俗に見えながらも、現実的な目線で世界を見つめる作者の冷静な視線がある。そして7:55からは時代設定が激しく混乱・混濁し、それにメタ的な視点が加わるので、全く突っ込みの追いつかないカオスな笑いが腹筋を崩壊させるが、作者の庭上げPが生放送で語ったところによると、単純に時代設定を忘れていたそうである。彼がギャグに関して、何か天性の感覚を持っていることは間違いないだろう。
 そして最後、庭上げPには珍しく、どこかシリアスな雰囲気を残して終わる。彼は本来、全くと言っていいほどシリアスを描かず、ギャグ系架空戦記の一つの頂点、猛徳Pの「曹操がプロデュース業を始めたようです」などにあるような、「ちょっといい話」すら描かない。前作世界IDOL大戦(?)第十五話の、ブーゲンビル上空で伊織が撃墜された時なども、悲しい話になるか・・・と見せかけて結局はオチが付くなど、あらゆる話を笑いに持ち込み、視聴者を「感動させよう」「泣かせよう」などとはかりそめにも思わない庭上げPの作風には、もはやある種のストイックさすら漂う。その彼がわずか2ページだけ見せた「オチのない会話」に何か新境地を見ようとしてしまうのは、その他のシーンが笑いで埋まっているからこその落差に驚いているだけなのか。「楽しい架空戦記」を極めつつある庭上げPの、さらなる躍進に刮目したい。

2009年下半期ニコマス二十選 推薦動画詳論 : アイドルマスター やよい 伊織 『グロウアップ』
<注意>
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 エコノミーP
 

 やよいおりは至高である。だがその表現となると難しい。特に原作ゲームではアイドル同士の横のつながりはゼロに等しく、当然映像もないので、やろうと思えば作るしかない。そのため「やよいおり」を動画で濃密に描こうとすると、どうしても手描きMADや架空戦記、ノベマスになりやすかったように思う。アイドルたちは、ダンスでは観客、コミュではプロデューサーに対して表現行為を行うが、アイドル同士がゲーム中に何らかのコミュニケーションを取ることは、原作では全くと言っていいほど映像化されていない。ゆえに映像素材を用いるPVMADが、「やよいおり」というアイドル二人の「関係」を描くのは、まさしく至難の業だった。
 そう、やよいおりは「関係」である。このブログでは既に何度か触れたことがあるが、美は「存在」と「関係」から成り立っている。我々はついつい、美とは「存在の美」にすぎないと思いがちだ。たとえば我々はある絵画を褒める時、その部分的な要素を重視しがちである。この表情、このデッサン力、そしてこの質感・・・だが実際に我々の感性が言語にならない部分で感じ取っているのは、そんな表面的な部分の総和ではない。ある物体とある物体とがもたらすどっしりとした安定感、どこまでも続く青空と草原との鮮烈な色彩の対比、そして全体の構図。甚だしい時には、キャンバスに描かれていないはずの、激しく火花を散らし合う二人の視線すら「見える」。それらは単純かつ部分的な、物体、つまり「存在」の美しさではない。その作品の中で描かれた「存在」と「存在」とが生み出す、有形的でない何か、つまり「関係」の美しさなのである。だから一つ一つの物体をいかにリアルに、丁寧に、本物っぽく描いても、真の芸術家の「写実性」には適わない。彼らは物体と物体とが織りなす「関係」に着目し、時には物体それ自体の「写実性」を犠牲にしてでも、その「関係の美」と「存在の美」を両立させようとするからだ。「存在の美」だけをいくら追求しても、存在間の関係が死んでいるようでは、作品そのものも死んでしまう。我々が複数の物体を目にする時に感じる「不安定だな」「ぎっしり詰まってるな」「互いに支え合っているようで面白いな」といった存在間の「関係」も、その映像が有する重要な情報であり、真実であるからだ。
 ひるがえって、やよいおりはどうか。やよいがいて、伊織がいる。それだけでは「やよいと伊織」である。「やよいおり」ではない。では一体「やよいおり」とは何なのだろうか。実際に想像してみればよい。二人の正反対とも思える「ツンデレ」と「素直」という性格、にも関わらず、なぜか伊織にはタメ口のやよい、友情とも愛情ともつかぬ淡い相互感情、それら全ての要素が優しく温かく二人を包み込んで初めて、我々はそれを「やよいおり」と呼ぶ。やよいというキャラ、伊織というキャラ、その個別では独立したキャラに過ぎない両者が、向き合い、語り合い、見つめ合い、あるいは手を取り合って始めて生まれるその両者の「関係」こそが「やよいおり」なのである。事実、大百科の「やよいおり」の項目に並ぶ素晴らしいお絵カキコの数々は、いずれも二人の「関係」を明示的に表現したものだ。この例一つをとっても、やよいおりは存在の和ではなく、二人の存在が織り成す関係の綾であることが分かるだろう。
 しかし、繰り返すが、この両者の「関係」をPVで描くことは、困難を極めた。観客を向いて踊るダンス、プロデューサに対して取る感情表現、それらの動画素材を直接使うだけでは、二人の「関係」を描くことはできないからだ。唯一、デュオでダンスをする際に、二人の「関係」を妄想できるような動作が生まれることはあった。umg1nL25DFLQMPの「アイドルマスター 歌ってる最中やよいのグラビアミズギが大変なことに」の1:58に見られるような、「GO MY WAY」のラストの、二人が互いに目配せし合う動きなどがそれである。が、初期のPVにおいては、そういった関係は特に重視されずに、二人が楽しそうにデュオで踊っているだけで「やよいおり」とされた。オンナスキーPの「やよいおり アイドルマスター やよい 伊織 巫女みこナース」や、あるつPの「アイドルマスター CARAMELLDANSEN ループじゃないよ」がそれである。やよいと伊織の二人が、楽しそうに並んで踊ってくれれば、視聴者にとって、それは「やよいおり」であった。それで、十分満足出来たのである。
 しかし、文字と立ち絵でストーリーを構築出来る架空戦記やノベマス、あるいはM@co.jPの「アイドルマスター 「ノート」 伊織☆やよい」に代表される手描きMADによって「やよいおり」は濃密に描写されるようになる。やよいおり表現に関して、PVに大きな制約があることは明らかであったが、これに対するPV側の一つの回答は、メイPの「アイドルマスター 伊織、暴れだす。」のように、台詞などの文章を直接PVに挿入することであった。この文章挿入という表現形式は、その後、やよいおりPV作品では一般的な表現となり、たとえば「やよいおり」PVの一つの頂点、tloPの「ライオン?伊織とやよいのサバイバル」においても見ることが出来る。台詞や文字の挿入が、PVで二人の関係を描く上で、強力な武器の一つになったことは間違いないだろう。
 tloPの「ライオン?伊織とやよいのサバイバル」は、確かにやよいおり作品の金字塔だ。ただ、この作品はPVでやよいおりを扱う上での、最大の問題点をも明らかにしている。これまで「やよいおり」を描くこととは、二人の仲の良さを描くことであった。にも関わらず、PVでは素材の制約からそれが思うように出来ない。そこでこの作品が取った手段が、二人の楽しかった日々の「崩壊」を描くことによって、逆説的に二人の「楽しかった日々」、すなわち我々の妄想する、一般的な意味での「やよいおり」を視聴者の胸に呼び覚まそうというものであった。この作品にも「やよいおり」は登場するが、二人の「仲の良さそうな映像」は、ほとんど「燃える二人の写真」くらいしかない。それ以外は基本的に、二人の悲しい関係を描いたものだ。我々の脳内には楽しげなやよいと伊織の姿が事前情報としてあるからこそ、それが崩壊したさまを描くことで、我々の脳内には幸福であったはずの二人の姿が、より強く鮮明に、感傷的に想起されるのである。このことは、この「ライオン」の3:31からの二人の描写からも見て取れる。3:34あたりから伊織がやよいの方を振り返るのだが、二人の目が合う頃には、それぞれを別々に写したカットに移行してしまう。これは通常のやよいおりのPVでもよく見られる表現だ。というか、こうするしかないのだ。二人が何か楽しそうに言葉を交わすような一カットの動画を加工で捏造することは、著しく困難を極めるのである。
 しかし、そんなことはtloPは百も承知だ。彼には考えがあった。あるいは彼の感性が、一つの答えを教えていた。それは「二人の心が通い合うよう描写をするのが難しいなら、二人の心がすれ違う描写をすればいい」ということだった。これは一見何の解決策にもなっていないようだが、それが一体どういうことなのかは、この動画最大の見せ場にして、PVMAD史上最も感動的な「やよいおり」である3:49からを見ればいい。割れるガラスのような物体がこれから起こる「何か」を予兆させながら、画面両端から歩いてきた二人が、すれ違う。私はこのシーンで涙腺がやられた。まっすぐ歩く二人は、互いのことを見てはいない。それは当たり前で、このモーションは、もともと「相手」の存在を全く前提としていないモーションだからだ。そんな「孤立した」二人が歩いてきて、すれ違う。誰もが「個」へと疎外されていくこの疲弊した世界で、誰よりも深い絆で結ばれ合ったはずの二人が――。
 素材となるモーションが孤立しているなら、本来孤立していないはずの二人が、孤立したモーションですれ違うことにすればいい。そうすれば、視聴者は本来の「仲のいい二人」を悲しく思い出すことで、身を切るような切なさに悶え苦しむことになるのだ。関係性の欠如したモーションの弱点を、破壊的な感動の源に変えたこの演出は、程度の差こそあれ今までも様々なPVの中で使われてきたことと思うが、ここまで効果的に使われた例を、寡聞にして知らない。そしてこの、最も「やよいおり」が破壊されたシーンの直後に、tloPはまた、この動画で最も温かい関係にある「やよいおり」を持ってくる。3:57からの、伊織がやよいを振り返り、「さあ、行きましょう」とでも言いたそうに、自らの行く方向へとやよいを導くシーンである。この作品の感動の源は、この落差であろう。誰もが頭の中で思い描く濃密な「やよいおり」を前提としつつ、アイマスの「孤立した」モーションを徹底的に活かしてその対立と崩壊を描き、しかしそれだけに留まらず、このように「この対決はあくまでも、一時的なものなんだ」という一抹の救いを残すのである。ため息。ただ、それしかない。「美は人を沈黙させる」とは、まさしくこのような作品に捧げるためにある言葉であろう。
 以上により、この「ライオン」が最高峰の「やよいおり」であることに異存はないが、ただ一つだけ思い出してほしいのは、ここで我々が感じる感動は、濃密な「やよいおり」そのものではないということだ。何度でも繰り返すが、この作品は我々の脳内の幸福な「やよいおり」を前提とした上で、その崩壊を描き、そのことによって我々が切ない気持ちで二人の真実の「関係」に想いを馳せるものであって、濃密な「やよいおり」そのものは、間接的にしか描写されていないのである。このことが、この作品における最大のアドバンテージであると共に、PVにおける「やよいおり」描写の難しさをも同時に物語っている。誤解のないよう付言するが、筆者はこのことをもって「この作品のやよいおり描写は不完全だ」などと言っているのではない。ただ、このような表現が素材の制約上最強だとしてしまうと、やよいと伊織の幸福な姿をもっとPVで見たいという、視聴者の飽くなき欲求は満たされないのかということである。筆者が「ライオン?伊織とやよいのサバイバル」を二十選から外したのは、このことに一抹の寂しさを覚えたからだ。確かにこの作品は素晴らしい。だが、もっと、二人の幸せな姿が見たい――。
 その答えとなるかのような作品が、「ライオン」の5日前に投稿されていた。本項で推薦するエコノミーPの「アイドルマスター やよい 伊織 『グロウアップ』」である。やよいおりをPVで表現するために、2007年から3年間に渡って蓄積されてきた様々な先人たちの知恵が、ぎゅっと詰め込まれたかのような作品だ。動画の再生開始から、二人が時間差で同じ動きをするが、切り抜かれた二人の距離は通常のステージ上よりもグッと縮まっており、「この二人の仲の良さを描きたい!」という強い意志が感じられる。0:10からは静止画で二人のスナップ写真のような画像が何枚も出るが、静止画なら二人の幸福な姿を描きやすいということは、先程の「ライオン?伊織とやよいのサバイバル」の燃える写真でもそうだったし、やよいおりを描いたもう一つの「ライオン」である 、ひろ。P の「アイドルマスター やよいおり ライオン」でも、最後の画像は背中を合わせて微笑む二人の静止画だった。この「背中を合わせた二人」というのは、アイドルがほとんど「孤立」してしまっているアイマスの画像素材でも「二人の仲の良さ」を描きやすい手法のようで、エコノミーPも0:12から、背中を合わせて歌う二人を動画で実現している。しかし、本当にすごいのは0:23からだ。接近して踊り始めた二人は、くるりと一回転した後0:27で向き合い、見つめ合う(ように見える)。そして何かを確かめ合うかのように二人で頷きながら、一緒に手を合わせて踊るのである。最後はだめ押しとばかりに、もう一度頷き合ってから、笑顔で一斉にジャンプ! 最高だ。これだ。私が見たかったやよいおりは、これなのだ!
 やよいと伊織の関係を描いたPVは、これまでにもあった。「やよいおり」のタグの付いたPVで、二人の関係に想いを馳せない作品など一つもない。二人がステージ上にいるだけで、顔が緩んでしまうようなこの幸福感こそ、「やよいおり」の一つの特性でもあるからだ。しかしこれほどまでに、二人が向き合い、互いに愛情を注ぎながら、幸せいっぱいで踊るPVを、私は知らない。この動画は他にも、先述した「GO MY WAY!!」のデュオで二人が合図し合う動作だとか(この動画では1:43から)、1:49からの、二人が同じ動作を交互に何度も繰り返すシーンなど、やよいおりPVで培われた技術を惜しげもなく注ぎ込んでおり、正統派やよいおりPVの総括とも呼べる作品だ。また0:47でやよいが、0:59で伊織が椅子に座るなど、スパイスとなる面白いギミックも十分にある。が、私が評価するのは、やはり技術のための技術でないことだ。
 もちろん、技術の凄さで相手を感動させるために技術を披露することも、一つの芸である。これを「技術があるだけ」などといって攻撃し、いたずらに軽蔑するのは、「精神性」などという曖昧なものを、動画評価における唯一絶対の基準にしてしまうという意味で、大変危険なことだ。先日のバンクーバーオリンピックにおける、フィギュアスケートの「芸術点」に関する議論などを見ても、これは自明である。
 しかし同様に、何がしかの感情を伝えるコミュニケーションの手段として技術を使うことも、やはり素晴らしい芸である。筆者はこの両者に優劣を感じるものではないが、前者は「技術の凄さ」が我々素人にも分かりやすく、かつ「どっちの技術がすごいか」という単純な優劣をどうしても感じてしまいやすいため、いわゆる「技術のインフレ」を招きやすい。これに対して、後者は感情や感動という個人的なものを扱うため、人によって評価が分かれやすく、同じ技術なのに「技術のインフレ」が起こりにくいことが特徴だ。あの「3A07」にすらアンチが付き、それが主にストーリーに関するものであることからも、これは自明だろう。ただし、繰り返すが、筆者は両者を共に「技術」だと思っており、「感動」を絶対化するあまり、努力と研鑽の結果生まれる純粋な「技術」を、いたずらに軽蔑することがあってはならないと思っている。
 いずれにせよ、「やよいと伊織の仲の良さを描く」という明確なテーマがあって、そのために様々な技術が投入され、それがただの技術の披露に終わらず、当初の目的通り、いままで困難だった「やよいと伊織の幸福な姿」を「動画で」描くことに成功している本作を、筆者は二十選の一に推す。二人の亀裂を描くことで、逆説的に二人の幸福な姿を儚く幻視させた「ライオン?伊織とやよいのサバイバル」に対して、オーソドックスで伝統的な技術や工夫を積み重ねつつ、さらにその一歩先へ進んで「幸福な二人」を描くPV表現の限界を押し上げた本作。この陰と陽、まさに「やよいおり」の如く表裏一体を成す二つの傑作から、私は「グロウアップ」を選んだ。しかし、最も注目すべきは、やはりそれぞれの作品そのものよりも、両者の「関係」であろう。「やよい」と「伊織」が好きなのではない。「やよいおり」が好きなのだ。同様にこの二つの作品も、二つ合わせて初めて、ニコマスが至ったやよいおり表現の奥深さを感じ取ることが出来る。本稿が、惜しくも選外となった「ライオン?伊織とやよいのサバイバル」の感想に長大な文字数を割いたのは、このためである。本稿が両作品の「関係」をいささかでも(評論という卑しい手法を用いてではあるが)表現できているなら幸いである。
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