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「技術論」の正体
 昨日はみてれぅチャンネルに捕捉されたことや、「アストロPファンのメモ帳」さんのエントリ爽快Pのエントリで取り上げていただいたおかげで、ついに史上最高の122HITを記録しました。ただの日記系ブログが何やってんでしょうかw でもリンク貼っていただいた皆さん、本当にありがとうございます。これでPの皆さんが再生数を気にする気持ちも分かりますねw 怖いの半分、嬉しいの半分ですw

 そんな中で「アストロPファンのメモ帳」管理人club-jamoraさんのエントリ(リンクは先述)によると、自分の記事「アイマスの王、王の中の王」は「技術的な内容」なんだそうです。「そうなのかー」と思う反面、自分にはPV作る技術も何にもないわけですから、そんな自分が技術の観点から物言ってるのは、なんだかおかしい気もしてきます。

 ところでclub-jamoraさんのエントリを見ると、次のような記述があります。

 >でも、動画が投稿されてからまだ3日目ということもあって、
 >技術的なことを書くブログがほとんどだったので残念でした。
 >そりゃ技術がびっくりするほどすごいのはわかるけれど、
 >RidgerP信者を自任する人までがそのあたりで一喜一憂してるのは、
 >結局RidgerPファンって彼の技術に魅かれてただけかといささか首をかしげます。
 >学ぶところそこじゃなかったはずだろうと。

 これに対してカズマさんが「その喧嘩買った!」と反応したりしたわけですが、自分がこの文から感じるのは、「お前ら技術しか見てねーのかよ」という非難よりは、「どこ見ても技術のことしか書いてない。みんなもっと違うこと言えないの?」という、ブログの読み手としての落胆でした。要するに、字面ではファンの感性を疑っているわけですが、本当に不満があるのは記事についてなんだと思います。もっと個性的ないい記事が読みたかったと。

 これに対して自分が思うのは、批評というものは、基本的に後付けの理屈だということですね。レビュアーは自分の説の説得力を増すために、筋道を立てて話そうとするわけですが、そうすると、理屈っぽいほうが有利になります。それだけならいいのですが、ある程度書き慣れてくると、今度は作品を見る時に、「理屈を付けられる良さ」を探してしまうようになります。これが我々レビュアーの病なんですね。ですから我々は、説得力のある論を展開したければしたいほど、理屈を付けて説明できる良さ、すなわち技術論に収束しやすいのだと思います。

 しかし、それは実は、「技術論」ではない。私は当該記事で、たとえば「阿修羅姫の密室感」というものについて触れていますが、正直、それをRidgerPが考えながら作っていたとは思っていません。ただ、自分が作品を見た「後」、そう感じたというだけの話です。ですから、これは解釈の問題なんですね。
 ところが、それに理屈を付けて論じることで、まるで私が言っていることを、RidgerPが念頭に置きながら作品を作っていたかのような、奇妙な倒錯が起こります。後付けの理屈が、普遍的な理論を装うことで、あたかも「事前に」その理屈があったかのような錯覚が生じるのです。その結果ブログの読者は、「なるほど、そういう理論に基づいて作られてるのか。すごいなあ」と誤解する。そして、その誤解こそが、我々レビュアーの意図するものなのです。魔法のような作品が生まれたその秘密、それを私は知っているのだと。

 こうして、解釈は理論になります。ニコマスブログ界で一般的に言われる「技術論」の指すものは、これではないでしょうか。なにせ、自分には動画を作る技術など全くないのですから。私のような人間が書いているのは所詮、武装した解釈、後付けの理屈にすぎないのです。

 ではclub-jamoraさんが何を求めているのかというと、「キャラクター解釈やストーリーに突っ込んだディープな記事」だそうです。それはまさに、文字通り「解釈」であり、我々レビュアーが回避したいものであるわけです。「それはあんたがそう言ってるだけでしょ」と言われたくないがために、我々はそこから逃げる。なぜなら解釈というのは、時に新たな創作にもつながるものです。我々はその責任から逃れたいのかもしれない。
 私は批評系ブログの管理人みたいなことになってますが、実は評論とかいうものに何のロマンも感じておらず、その理由は、以上のようなものです。結局答えは簡単で、「作品を作れ」の一言に集約されます。ある作品が生まれ、その作品に触発されて、次の作品が生まれる。私のようなレビュアーというのは結局、その作品と作品との狭間に生きる、節足動物に過ぎないのかもしれません。

 ***

 こんなわけで、みてれぅのリンクを回りまくったclub-jamoraさんの渇きが癒されなかったのは、よく分かります。ぶっちゃけると、批評ってそんなもんなんですねw だから「技術的なことばっかり」って言われると、「そうなんだよね」としか言えません。そうなっちゃう構造なんですね、批評って。だからダメなんですよw

 しかし一方で、この作品「宝野ハルカ」は、club-jamoraさんが言うような、文学的意味での解釈を生みにくいという批判をしてもいいかもしれません。つまり、このシーンが意味しているものはこうだとか、そういう解釈で遊ぶ余地が、ほとんどありません。演出や表現は、「すごさ」「快感」といった肉感的な感動に直接訴えますが、アリプロの歌詞の意味等はほとんど考慮されておらず、シラカワPのように独立したストーリーを備えているわけでもありません。これらはほとんどイチャモンに近い「指摘」だとは思いますが、将来、この大聖堂が神の墓標に変わる日、「弱点」として突かれる可能性は残しています。

 でも、そういう「指摘」は嫌いなんで、ここまでにしときましょうw
 以上です。お疲れ様でした!
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