iM@S架空戦記を中心としたニコマスの感想サイトです。

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世界の新着動画について
 ま、寝言ですw 試験終わって気が立ってるんでしょうw
 超長いですよw またエディタが異様に重くなってしまいましたw
 ***

 西岡Pが素晴らしく整理されたエントリを書いてたり、庭上げPが激怒されてたりするので、得られた情報のまとめをしときます。本当は西岡Pのブログにコメントで書こうと思ってたんですが、メモ代わりにこちらに書きます。

 私はこの爆撃被害にあまり出くわしたことがなかったんですが、今日、ついに焼け野原を見てしまいました。これはひどい。
 西岡Pのおっしゃるとおり、世界の新着動画視聴者というコミュニティの自浄作用に期待するのは、難しいと思います。ニコ動のコメントが基本的に悪意のないもので占められるのは、その動画がつまらないと思った人は、すぐ「戻る」ボタンを押すなり、ブラウザのタブを消すなりできるからです。つまらない動画を強制的に一分間見せられるのは誰にとっても拷問だし、文句の一つも言いたくなるのは仕方ない。けれどもそれをシステムとして提供するのはどうなのか。世界の新着動画視聴者からすると、たまに面白い作品が見つかって、みんなで騒いで楽しいのかもしれない。けれどもその動画にたどりつくまでに、大量の動画にネガコメが足跡として残されるわけです。これが「文句を言うなら自分で作れ」「つまらないなら見なけりゃいい」の精神で動画内のコメントの秩序を自律的に保ってきた従来のニコ動の精神と決定的に相容れない。私も7割の動画は5秒くらいしか見ません。サムネで見ないと決めることももちろんあります。けれどもそれらの動画にネガコメを書き込むことはありえない。そんな面倒なことはしません。でも5秒見て、「もう次の動画を見たい」と思った動画をさらに一分近く見せられたらどうなのか。正直、紳士でいる自信がありません。
 運営の人は「そのうち世界の新着動画視聴者にも一定のコミュニティが出来上がるから、マナーはよくなる」と言ってるけれども、これは完全なる誤謬です。動画に残されるコメがマナーのいいものになるためには、その動画を見たいと思って見始めた、あるいは面白いと思って見ている、このどちらかが必要です。そして世界の新着動画視聴者の全てが、あらゆる動画を見たいと思って見始め、またはあらゆる動画を面白いと思って見ることはありえない。だからこそ「続きを見たいか」という機能が付いているわけで、これはシステム自体が、ネガコメの発生を確信しているに等しい。
 ニコ動のシステムは、以前書いたように、動画単位の全体主義です。村社会と言ってもいい。これは御三家のように動画の作品性が高いカテゴリにおいて顕著で、基本的にはその動画を面白い、あるいは不満はあるがどこか見所があると思う人だけがコメを書き、それによって「その動画を面白いと思って見る人」のための、居心地の良い村=動画が構成される。でもそれは、繰り返しますが、全体主義的であり、翼賛的であり、固定的であるわけです。だから、それを横断するようなシステム、農村的・定住民的でない、流浪的・遊牧民的なシステムがあったらどうだという発想自体はいいでしょう。実に雄大で、実験的で、何より面白い。ところが既に知られているように、この世界の新着動画視聴者が好む動画というものに、一定の傾向がある。そしてそれに当てはまらない動画は爆撃を受ける。「世界の新着動画で、意外な作品が評価を受けることもある」というのは反論としては弱い。世界の新着動画で掘り起こされる良作というのもあるんでしょうが、少なくともアイマスに関しては、みてれぅと広告で用は済んでます。
 世界の新着動画の視聴者間にコミュニティが形成されても、それは投下されるコメが従来のマナーに沿ったものになることを意味しません。全ての文化は、一定の文化を排斥します。誰もが誰もに寛容になれるわけではない。たとえば寛容な人は、寛容でない人が嫌いだったりする。人は神にはなれないわけで、それはアイマスも同じであって、アイマスが好きだけど、特定のカテゴリが嫌い。そういう人は多いわけです。だからこそカテゴリがあって、住み分けが起こってるはずなんですが、その壁を越え、自由に移動し、かつどのカテゴリにも迷惑を掛けない――世界の新着動画が、そんなコミュニティを形成できると思いますか? 私は思いません。先述したように、ニコ動の縦割りの社会、村社会が一定の秩序がある一方で、つまらないのも分かる。横断的な人たち、カテゴリにとらわれない視聴者。そういった人々がいてもいいのではないか。それも分かる。けれども、少なくとも今の状態では、カテゴリ間を移動し、特定の基準に基づいて、それぞれの動画を断罪し、コメントが作る「雰囲気」を破壊し、何の痛痒も感じないまま次の動画に移っていく。そんなような、移動し、侵入し、破壊する、新しい「村」。それが出来たにすぎないのではないかという疑問があるわけです。
 こういうのを見ていると、自分は世界史をやったので、海賊なんかを思い出しますね。山賊は麓の村から定期的に奪うために村の財産の全てを奪わず、ある程度食料や財産を残してやり、それで村がまたある程度たくわえを取り戻したところで、山から降りてきてまた略奪を行うそうです。まあそれはそれで狡猾なんですが、海賊の論理は全く違います。彼らは奪い尽くしたら船で海を渡って次の村を目指せばいいんで、略奪は根こそぎ行い、逆らうものは容赦なく殺しました。もちろん、その海賊の正体は領主の悪政に苦しめられた沿岸部の農民だったりするんで、このことをニコ動のカテゴリ分けに満足できない一定の人々とみなせば、また議論も複雑になってくるんですが・・・。

 もちろん、運営としてはこのシステムをもって従来の村社会的なニコ動の文化に新たな風を吹き込みたいのかもしれません。確かに村社会の文化と遊牧民の文化がぶつかった時、村社会のぬるま湯的幸福を優先しろといえる根拠はない。ただこのシステムの最大の問題点は、世界の新着動画からの一方的な攻撃に対して、その動画固有の愛好者からは何の抵抗も出来ず、わずか数分の間に愛好者たちのコメは流され、NGユーザーのようにそれを無視することもできない(コメが流れてしまった場合、「世界の新着動画のコメントを表示しない」では十分な治癒がなされない)ことにあります。これを改善するだけでもかなり事態は良くなる(というかほぼ問題がなくなる)と思います。
 ただ、運営の視点は明らかに歪んでます。西岡Pのエントリによると、彼らから見れば「世界の新着動画によるコメントの荒れより、人気動画の荒らしコメの方が重大」なんだそうです。これには開いた口が塞がりません。ニコ動でなぜ面白い動画が見つかるのか。それは、私に言わせれば、300万個も動画があるからです。魚が大量の卵を産み、その中から生き残ったものだけが成体になれるように、ニコ動も多産多死の世界です。とにかく沢山の人が、大量の動画を作る。だからこそ、その中から自分に合った面白いものが見つかるわけです。テレビや映画のように、事前にプロがふるいにかけ、プロが面白いと思ったものだけが提供され、視聴者はその中から選ぶしかない。そんな前時代的な少産少死の世界、事前に数億の精子が唯一つを除いて死滅してしまうような哺乳類的選別主義に、ネットはNOを突きつけたはずなのです。動画の作者が「これって面白いかも」と思えば、絶対に公共の電波や正規の流通網には乗らないような作品でもUPされる。そして我々が気付いたことは、案外そういうものが、プロの目で選ばれたものより面白いということなのです。自分で「面白いもの」を探す手間を勘定に入れてもです。
 ところが運営の視点から見ると、マイナーな動画が荒れるかどうかより、有名な動画が荒れるかどうかのほうが重大な関心事になっている。正直言って、有名な動画は荒れたっていいんです。どうせすぐコメが増えるし、再生数が軌道に乗ってからも巡礼者がいて定期的にコメが増えますから、修復も出来ます。職人がCAで流してくれることもある。それよりコメがほとんど増えない動画、マイナーな動画が爆撃を受けてしまったほうが悲惨です。その動画の作者は、一生、その動画を見たくもなくて見させられた人たちの大量の愚痴コメを見続けるはめになります。非表示にしたところで、それが「存在」していることに変わりはない。作者はその「視聴者の意見」から目をそらさなければならないという罪悪感を強要させられるのです。そして一部のマニアが、ニッチな趣味で楽しむ動画ほど被害が償えないものになってしまう。架空戦記などはUP直後のコメが重要で、それによって大多数の人の動画を見るイメージが変わりますから、そこに爆撃が来ると文字通り「終わり」です。そして大御所の動画、大衆受けのする動画ほど爆撃が痛くなく、一方で無名の人の動画ほど爆撃の爪あとが痛々しくて見てられないという状況になる。これはニコ動の圧倒的多数のUP主にとって不幸です。
 爽快Pがよくブログで言う言葉に「多様性」がありますが、これはまさに動画の多様性、「伸びない動画にも存在価値はある」という思想を蹂躙するものです。そう、ニコ動の特徴を先ほど「多産多死」と書きましたが、これは正確ではない。どんなニッチな動画も消されることはなく、広告で浮上することもあるので、実際には「多産無死」であるわけです。再生数が1万を越えたものを「生存」、それ以外を「死亡」と評価すれば確かに多産多死なんですが、実際には架空戦記なんかは500ヒットもあれば面白い人には十分面白いので、厳密にはほとんどの動画は死んでない。なのに、このシステムはその死んでないはずの動画を殺すのです。そして西岡Pがおっしゃるように、その萎縮効果、すなわち「この動画が世界の新着に出たらどうしよう」という気持ちが、世界の新着で罵倒されやすい実況系、架空戦記、ノベマス等の作者の制作意欲に影を落とし、ただでさえ精神力を要する連載があるいは中断され、あるいは「自分も動画を作ってみよう」という気持ちを萎縮させてしまう可能性が高い。この「萎縮効果」というのは法学の世界でもよく問題になる現象で、「実際に被害を受けている動画は一部」「意外と肯定的なコメが投下されることもある」という反論は大事なことを見落としてます。その残った「一部の動画」が叩かれ、晒し上げられることで、その何倍、何十倍もの人が、作者・視聴者を問わずに精神に負の影響を受けるのです。「実際の被害」だけを挙げて、いかにも「実証的」にこの問題を論じることは、最も重要な論点から目をそらすものだといえるでしょう。

 そもそもアイマス民でさえ、ハードな人からソフトな人までを合わせて5万人くらいしかいないだろうに、その中の500人しか見ないということは、残りの4万9500人は、そんな動画なんか見たくないのです。それを強制的に見せてしまうということは、必然的に残りの99%の人からすれば、その動画はつまらない。ラヂオの時間やIDOL大戦ですら3000?5000くらいですから、単純に考えれば90%のアイマス民は、そんなもの見たくないということになる。これは恐ろしいことです。アイマス民ですらそうなんですから、世界の新着動画視聴者の人たちからすれば、たとえそれが御三家カテゴリだと分かって見始めた人たちだとしても、どういうことになるかというのは、簡単に考えれば分かる話です。
 思うにテレビの堕落、零落が始まって久しいです。特に民放の番組のくだらなさに度し難いものがありますが、一方でNHKが、ここに来ていい番組を作りだし、視聴率で健闘しています。また、NHKの過去のドキュメンタリーの数々が、ネット上での「コンテンツ」として選択的に視聴されうるものとして脚光を浴びたりもしています。NHKが「NHKオンデマンド」で過去の番組も配信しようとした時、民放は「民業圧迫だ」と言って徹底的に潰しに掛かりました。ネット上でパソコンの前に座り、集中して見る「動画」という観点からは、NHKの作ってきた番組には圧倒的に「コンテンツ性」があるのに対して、民放の番組にはそれがないからです。理由は単純で、それは民放の番組が「視聴率」という唯一絶対の尺度からのみ制作されて来たからです。視聴率が高ければそれでいい。テレビの前に座ってる人が、テレビを見てなかろうが、くだらないと思ってようが、家庭に設置されたテレビの画面に自分のTV局の番組がただ映っていればそれでいい。その空虚な数字を獲得するためにのみ、いびつな進化を遂げたのが民放の番組なのです。だからインターネットという「巨大隕石」が地球上に落下した現在、民放の番組は苦しみはじめました。そして意外なことに、「お高い教養番組」ばっかり流してきたはずのNHKが、次第に評価され始めている。それはNHKが番組を作る上で、視聴者の「数」でなく、視聴者の「満足度」を基準にしてきた結果でしょう。私の母親が以前NHKのモニターのアルバイトをしていたんですが、あるニュース番組のセットが暗い感じでパッとしないので、「もっと開放的で明るいセットにしたほうがいいのでは」と書いたら、1週間くらいでそのニュースのセットが変わりました。おそらく同じような意見がたくさん来てたんだと思います。こういう風に、「視聴者の意見を取り入れて番組を良くする」という発想は、民放にはない。あるいは、あったんだけど、失ってしまった。
 では世界の新着動画の意見は、「視聴者の意見」なのか? それを取り入れれば動画は良くなるのか? 私はならないと思います。先述したように、ニコ動の良作は、ほとんどの人にはつまらない。このことと、雑多な趣味嗜好で構成されたコミュニティの50%以上の総意を得ることは、決定的に相容れません。それは「自分が面白いと思う動画を探して見る」というニコ動的、あるいはインターネット的なコンテンツのあり方を、テレビ的な視聴率の論理で断罪することです。もちろん、テレビ的な論理で得られる「一体感」というものが、ニコ動的なシステムから生成される「一体感」に比して劣るとは思わない。インターネット文化にも問題点は腐るほどあります。ニコ動の動画上で形成される一体感は、ある種架空のものであり、みんなで同じテレビの同じ番組を見てた時代の一体感とは質が違います。けれども、一つの文化と一つの文化がぶつかった時、片方が片方を駆逐する理由が、「力の差」であってよいのか。暴力であってよいのか。仮に良かったとしても、その「力の差」は、「神」が恣意的に与えたものではなかったか。その「ある特定の人たちに強力な権限を付したこと」の正当性は、一体どこにあるのか。そして破壊された文化と、破壊することによって生まれた新しい文化、あるいは価値とを比較衡量する時、このシステムが生み出したものは一体何なのか、そもそも何ものかを生み出しえているのか、甚だ疑問であるわけです。
 
 この問題は様々なことに絡めていくらでも語れます。ニコ動の通常の動画は我々が能動的に見るわけですが、このシステムでは受動的になってしまっていることにも、本当は触れるべきでしょう。おいしいラーメン屋を探して場末のラーメン屋に入り、まずいラーメンが出てきても、自分がへこむだけです。店主に「このラーメンはまずすぎる、どうなってるんだ、金返せ」と怒鳴りつける日本人はほとんどいない。けれども、お城の食堂で上座に腰掛け、運ばれてくる料理がまずかったら、王様は腹を立てるでしょう。料理人はクビになるかもしれない。そして自分が王様だと思ってしまうのが、この受動性の病なのです。

 ***

 西岡Pみたいに整理して書けなくてすいません。思いつくことがいっぱいありすぎて、このことについては上手く整理しきれませんが、自分が今思いつくのはこんなようなことでしょうか。また新たな問題が発生したりしたら整頓してまとめ直すかかもしれません。
 最後に・・・これ、本当に全部読みました?www 私は文章書いてて何度も見直すんですが、だんだん見直すのが辛くなってきて・・・w しばらく長文書いてなかったんで分かりにくかったり重複してたり理論が跳躍してたりしますが、ま、少しずつ戻していきます。

 では、読んでくださった方、ありがとうございます!w
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最後まで読みましたよ~。
色々と興味深く、また考えさせられました。
なにより、ここまで今回の件でPの為に怒ってくれる視聴者の方がいることを、Pの末席を汚す者としては嬉しく、ありがたく思います。

ただ、見る側からの暖かいご意見に頷いているだけで終わらせたくない気もしています。
内輪の動画であることに感覚が慣れすぎていた面もあるかも知れません。どんなに普段は常連しかみない動画であっても、その気になれば誰でも見られる動画であるとの緊張感を忘れてはいけませんよね。
それは結局、新しいもの、より面白いものを生み出す感性を鈍らせることになりますから。
糸冬 | URL | 2009/11/09/Mon 23:55 [編集]
■糸冬Pへ

 うほw 本当ですかw まとまってなくて申し訳ないです。あまりに長すぎて、読み返すのも辛くなってきて、だんだんやっつけになってしまいました。
 「Pの為に怒ってくれる」ですかw 確かに好きな動画が荒れることより、たとえその動画があまりいいとは思わなくても、作者に対する仕打ちに落ち込んでしまうことのほうが多いです。実際、評価も偏りすぎでしょう。やっぱり、あれを「読者の評価として受け入れろ」というのは無理がありますよ。

 興味の無い人にも見てもらえたりするのは重要だと思うんで、やりたいこと自体は分かるんですけどね。でも大企業や国じゃあるまいし、間違ってると思ったらすぐやめるべきです。被害の捉え方も一面的でおかしいし、とりあえず応急処置でコメを直して、生放送のほうのコメが紳士的になったら反映させればいいだけの話です。

 架空・ノベマスはほんと「食わず嫌い」になりやすいんで、なんかいいやり方があるといいんですけどね。
gase2 | URL | 2009/11/10/Tue 01:23 [編集]
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| | 2009/11/10/Tue 14:27 [編集]
■隠しコメの方へ

 いや、糸冬Pへのレスにも書きましたが、やっぱり視聴者として辛いですよ。自分の場合、面白い動画が潰されてて凹んだのではなくて、別に興味もないし、上手くいってるとも思えない動画なのに、それに途中から一斉にコメがついて、ボコボコに叩かれてるのを見て凹んだわけです。それはPが可哀そうという「同情」よりは、イナゴの群れが草原を荒地に変えていく「やるせなさ」です。こんなことが許されていいのかと。
 しかも世界の新着で見てる人たちの身になってみると、ああいうコメを書く雰囲気が醸成されてしまうわけですから、コメ書いてる側が特別に悪人というわけでもない。そういうコメを書くのが嫌な人は、どんどん抜けてくでしょうしね。悪貨は良貨を駆逐するわけです。なのでこれは仕組みが悪いとしかいいようがないでしょう。2ちゃんねるという仕組みは悪くない、そのうちコミュニティが構成されて・・・というのは幻想だったわけです。仕組み自体が悪いこともある。駄目な仕組みを提供しておいて、「後は使う側の問題」というのは責任逃れですよ。
 あと、被害がまだ局地的で、被害の現実を見たことがない人が大多数だというのも問題ですね。ウチの弟も重度のニコ厨なんですが、全然知りませんでした。でも、被害が少ないうちだからこそ、対応してほしいですね。有名動画への粘着よりも「重要度」や「被害者の数」が増してからじゃないと手当しないというのはおかしいでしょう。それまでにどれだけの作者や視聴者が犠牲になることか・・・。運営の人たちはあまりに大量の人間を相手にするせいで、自分たちが「神の視点」を持ってると勘違いしてるんじゃないかと思うことがあります。

 あと、ここまで書いておいてなんなんですが、私自身はそんなに怒ってませんw ただ、考えてみると色んなことが思い浮かぶので、こんなに長くなっただけです。この問題は根が深いんでしょうね。運営の考え方とか、ある仕組みの中に組み込まれた時の人間の残酷さとか・・・。
gase2 | URL | 2009/11/10/Tue 17:03 [編集]
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| | 2009/11/14/Sat 00:17 [編集]
■隠しコメの方へ

 こんにちは! コメントありがとうございます。
 隠しコメにしていただいたのに申し訳ないんですが、ちょっとところどころ引用しながら返信させていただきますね。

 >まあコレ、私のことなんですけどww
 いや、やっぱそうですよねw きっとそういう人がいらっしゃると思ってました。悪貨は良貨を駆逐するんですね。
 もちろん、「世界の新着が失礼します」みたいなコメも増えてきて、一定の人々は自覚的になってきており、もっと紳士的にいこうという人もいるんでしょうが、彼らが残って「ざまぁwww」な人たちが消えるとはなかなか考えにくいですね。
 良識的な人ほどコメを控えるから、逆に荒らし系のコメが目立つというのも、現実の言論の世界と同じですけど、逆にいうと今まで作品系動画のコメに作者への気遣いというのが生まれてたのは、ほんと奇跡ですね。この奇跡を大事にしてもらいたいものです。

 >リクエスト対決
 へーそんなのあるんですね。しかし、今運営が新しく付けた拒否機能は「生放送への引用を拒否する機能」ですから、そういうのも一緒くたに否定してしまうのは無茶苦茶ですね。システム的な問題なんでしょうが、生放送で頑張ってきた人たちまで巻き込んでしまうのには何の理由もありません。そのうち引用できるのは昔の作品だけになっちゃったりして・・・。

 >居酒屋のTVを見ているノリ
 居酒屋のTVを見ているオッサンたちのボヤキを全部TVに乗せたらどうなるでしょうね。それがネットのウリである「双方向的」ということなんでしょうか? 笑っちゃいますよね。
 「世界の新着についてウダウダ言う奴は批評を受け入れられないゆとり」という意見もありました。「作者はあらゆる批評を甘んじて受けなければならない」という批評側の自己肯定が垣間見えますね。その理由を尋ねても、おそらく「言論の自由」以上の答えは返ってこないでしょう。そこで思考が止まってるんですよ。それによってどんなに作者が傷つこうが、読者がウンザリしようが、「言論の自由だから」で全てが正当化されてしまう。しかし彼らが侵害しているものこそ、実は言論の自由を制限しうる唯一の概念「公共の福祉」なんです。では「公共の福祉」とは何か。それは「他者の人権」です。自己の権利を主張して他者の権利を不当に抑圧することは許されないという基本的人権の考え方がここにあります。「言論の自由」などという法学的概念を振り回す人たちは、ここまで知った上で、それを主張してほしいと思います。それは決して、言論ならば何をしてもいいというような、殺しのライセンスではないのです。

 ***

 いやしかし、二回も読まれましたかw 本当にありがとうございます。まあ、作者の方のブログなんか見てると、私たちみたいなのがネットでキレてるのを見て、ちょっと落ち着いたという人もいましたw 意外と早く第一次の対策も施されたみたいだし、これで世界が終わったわけでもなさそうです。
 ニコ動はネット全盛の時代に咲いた奇跡の花かもしれません。いずれそれが枯れることは分かってるんですが、こまめに水を変えるなり、腐った根っこを切り落としてやるなりして、少しでも長く持たせなければなりません。出来るだけ長く、この美しい徒花を眺めていられるといいですねw

 では、ありがとうございました。
gase2 | URL | 2009/11/14/Sat 22:08 [編集]
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