iM@S架空戦記を中心としたニコマスの感想サイトです。

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立ち位置の再確認(チラシの裏)
 アイマスとは直接関係のない随想なので格納します。
 このブログについてです。
 ***

 昨日書いた「すごいこと」というのは、私が見てる某架空戦記のP(ご自分のブログも持ってないし、このブログのコメント欄に来られたこともありません)から、「白雅雪blogの全エントリ読みました」という内容のメールが来たことでした。
 ・・・いや、びびったなんてもんじゃないっすw そりゃまあ、たまに「あ、俺結構いいこと書いてね?w」みたいな日もありますよ?w でもまあ、評論なんて何度も書いてるように人間の表現で形に残るものとしては最低ランクのものだと思ってるんで、まさか、こういうことが起こってしまうとは・・・嬉しいというより、とにかく何がなんだか分からなくてw すっかり興奮してしまって、やらんでいいのに超長文のメールで返信してしまいましたw 相手の方の迷惑考えるなら短くまとめろとw サーセンwww
 ただその後、改めて自分の過去のエントリを見直してみたんですが・・・うーむ。思ったよりいいこと書いてないなーw こんなメールいただける以上、なんか自分はすごいことを書いていたのではないかと思いましたが、全くそんなことはありませんでしたw 結構自信があったエントリも、今見ると甘い部分が目に付いて恥ずかしいw

 でも、「物語の構造や動画の文化的立ち位置について書かれたものが読みたかった」とか、「架空戦記を作るうえで重要な示唆が得られた」とか、そういう内容のことをいざ実際に書かれてみると・・・これは麻薬だなとw
 いや、もちろんブログ書きには最高の賛辞です。このブログに初めて庭上げPが来てくださった時、これ以上嬉しいことは当分ないと思ってたんですが、その後わずか数ヶ月の間に、自分の大好きなPたちがコメント欄に訪れてくださったり、メールくださったりして、正直幸せすぎて困ってました。こんなに幸せでいいんだろうかとw なんかバチが当たりそうで・・・自分にとってニコマスP、とくに架空戦記Pというのは、一昔前でいう小説家みたいなもんです。憧れの存在なんですね。でも、まさかこれほどの「事件」が起こるとは。
 が、一方で、ブログに書き連ねた随想ごときでこんなメールもらっちゃうと、なんか私が軽蔑してる世の評論家たちの笑い声が聞こえてきそうなわけです。

 「ははは。gase2。見たか。これが評論の存在価値なんだ。作者だって評論を望んでる。言論にも文化を形成する力はあるんだ!」

 この快哉に対して、しかし、私は断固とした拒否をしたいですね。
 評論の神様、小林秀雄は「評論とは、作品を通して自分を語ることである」と喝破しました。作品などというものは結局人間に語ることはできず、人は、その作品を通して、自分の内面を見つめ、「自分がどう思ったか」「そもそも自分はどういう人間であるか」ということを人に伝えることができるにすぎないというわけです。人がある作品を罵倒する時、それはその作品が稚拙なものであることを直接には意味せず、むしろその人がその作品を嫌いであること、あるいはその人がその作品に罵倒を浴びせるような人間であることを表すにすぎない。なぜなら作品というのは結局「物」にすぎず、そこに「優れている」とか「精緻だ」とかいう情報を直接に付加することはできない。そういう「感想」は、それぞれの人間の脳内にあるにすぎず、物象界に存在するのは、ただ無垢な「物」としての作品だけだ、というわけです。ある意味で諦めなんですが、自分は真諦だと思いますね。
 一方である評論家は、この小林の言葉に対して、次のように反論しました。「評論とは、自分を通して作品を語ることである」。・・・何の意味もない言葉です。ただの言葉遊びにすぎません。しかしこの言葉は世の評論家たちの「それでも俺たちは作品を語れるはずだ」という根拠のない自信、迷信を表していて妙です。個としての「自分」を通した時点で、それはもう客体としての「作品」ではないようにも思いますが、その個としての「自分」の中にある作品像を客体としての「作品」と同視しようとする点において、要するに独善的なのです。「俺の感じたことが、この作品の客観的な評価」というわけです。そして、そういった評論家たちの全能感が戦後の日本文学界において、作品よりも評論のほうが強いという倒錯した状況を作ってしまい、戦後の文学は荒廃したのでした。「言論」が強すぎる空間において、いい作品は生まれないのです。

 こういうわけで、未だに小林を信望している評論家も多いのですが、自分は、小林の評論は評論ではないと思ってます。彼の『モオツァルト』などは多分に詩的で、評論というより、ほとんど私小説です。というか、私小説なんだと思います。「作品を語る」ことをやめ、「自分を語る」ことを始めた彼が、文章で読み手に何がしかの収穫を与えようとした時、「言論」ではなく「表現」の世界に行ってしまったのは、無理のないことなのかもしれません。それを小林の「限界」という人もいそうですが、自分はこれは評論の限界を表してると考えています。実際、小林を越える「評論家」は表れませんでした。それはおそらく、小林がやっていたことが、評論ではなく、「評論っぽい小説」だったからでしょう。書き手が「評論家」の枠に収まっている限り、それを超えることは物理的に不可能なのです。

 ・・・こんなことを考えているので、自分は結局、言論より表現を上に置くんですね。まあ、「言論」の絶対性にスネオのように寄り添って好き勝手なことを言う人が嫌いというのもありますがw 
 もちろん、これは平時の理論であって、戦争が起こりそうになったり、人権が国家によって抑圧されたり、真実が闇に葬られるのを防いだりするためには、言論の絶対性は強力な武器になりますし、その自由を侵すべきではないとも考えます。けれども自分には、その言論の絶対性を、平時の文化の領域にまで持ち込むことに疑問があるわけです。思想のプロパガンダになっていたり、特定の人種の人々を貶める作品を攻撃するならまだしも、「言論の自由」とは、作者の人格や技術の不足を必要以上に攻撃するために与えられたものではないと思うからです。
 ただ、それを法的に「これ以上やってはいかん」と決めるわけにはいきませんから、当然、「個々の良心」に委ねられる事柄だとは思います。そして自分は個人主義者なんで、他人に対して「みんな、こういうことはやめよう!」と強く呼びかけるつもりはあんまりなくて、基本的には、自制や愚痴という形になるわけです。

 だから、過大な褒め言葉をいただいて何時間もかけて2828しながらメールのお返事書いて、その後で「やっぱりこんな扱いを受けてしまったら勘違いしそうで怖いなあ」ということを考えていたわけですw
 本当に嬉しかったんですが、一方で、「何を書くべきか」「どう書くべきか」みたいな煩悶は余計深まった気がしますw 本当にどうしていけばいいんでしょうねw よく我々視聴者は、Pの方に「そのまま無理せず頑張ってください」と言いますが、これが意外と難しいことが分かりましたw 自分でも何とも思ってなかった、ただの思いつきを書いただけの記事が、他のブログで取り上げてもらえることもあるし・・・分からないですよねぇ人の気持ちってw

 ***

 いっつもしょーもない記事に付きあわせてしまってすいませんw まあ、お返事メールの中では「俺はこんな記事が書きたいと思ってる」みたいなことも一席ぶってしまったんですが、それはまた今度書きましょうw
 じゃ、ホントいつもすいません。以上です。
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