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【政治】「第28期東京都青少年問題協議会答申素案」に対するパブコメ
 政治ネタです。東京都の青少年問題協議会がパブコメを募集してたので、書いてしまいました。
 以下はその内容と雑感です。
 ***

 (以下、提出意見)

 1.特定出版物の根絶・追放を目的とする条例は法律としての性格を持つものであり、地方自治の権限を逸脱し無効である。
 「児童を性の対象として取り扱うメディアの根絶・追放」を目的とする条例を、東京都が、インターネットのサーバや出版社等が集結する東京都で行うことは、事実上全国に与える影響が大きく、また、東京都から「児童を性の対象として取り扱うメディア」として認定を受けた企業が他の道府県に移転の拒否をされる可能性も十分に考えられる。また、そのような条例の実効性の確保には、他の道府県からの出版物の流入を防ぐために、所持品検査・流通の監視・インターネットの網羅的フィルタリング等を行うことが必然的に求められるため、他の道府県民の自由を必然的に侵害する。以上のことから、当該目的のための条例が仮に制定できたとしても、そのような条例は都の自治事務の範囲を逸脱しており無効である。

2.前田雅英氏の思想は危険かつ拙劣であり、協議会のメンバーとして容認できない。

 前田氏は「最後は、法律の世界では常識で、こういう物があったら犯罪が増えるとする人が多い感じがあれば法的に禁止する。これは当然。統計データがなければ禁止出来ないというのはナンセンス」と述べたことがあるが、この理論では、魔女狩りも、ナチスのユダヤ人虐殺も、法律の成立自体には何の問題もなかったことになってしまう。過半数の民衆が望んでいることを理由に少数派を弾圧するのは現代の民主主義が忌避してきた大罪であり、前田氏は「10万人から抗議が来た」と言っているが、不自由を訴える人々が10万人もいるなら、しかるべき配慮があって当然である。
 よって、多数の同意さえあれば法律に合理性や実効性は不要であるとする危険思想の持ち主である前田氏は、協議会のメンバーとして不適切であり、罷免すべきである。「御用学者」として公的なポストを渡り歩く前田氏の継続的な登用は、協議会の品位と権威を傷つけ、協議会の出す結論の正当性を著しく損なうものである。
 同様の問題は大葉ナナコ氏、新谷珠恵氏にも見受けられ、両名も委員として著しく不適切であるが、両名の思想・発言の問題点については公知であると考えられるため、ここでは繰り返さない。ただし、罷免が相当と考えられるのは両名も同じである。

3.答申素案では、「最終的にどこまで規制するのか」が不明瞭である。
 この答申素案に欠けているのは、「最終的にどこまで規制するか」という到達点の明確な提示である。立法事実の認識や規制の方法にも重大な瑕疵は存在するが、この答申素案では危機感をいたずらに煽るばかりであり、目標となる到達点が明確に表明されない以上、「児童の保護を建前に、どこまでも規制が強まるのではないか」という不信感を抱かれて当然である。さらには委員の中に「人権保護を訴えることでメシを食っている人間」が大量に含まれており、このままでは、一定の目標を達成した後も、さらなる規制を求めて協議会の意見が先鋭化・教条化するおそれが十二分に考えられる。よって、協議会はまず、具体的な規制目標を国民からの意見を十分に参酌しながら定め、そしてその目標について詳細かつ論理的に、反対派の意見も勘案しながら検証し、確かな規制の正当性を確保したうえで、明確なビジョンを持って、それに向かった政策を考えていく必要がある。
 ただし、「児童に対する虐待がなくなるまで」というような抽象的な目標だけは断じて許されない。なぜなら法による規制には限界があり、人類の歴史上児童に対する虐待はいかなる文化・国家・時代・法律の上でも発生したと確認できる以上、条例や法律でいくら厳しく都民を拘束しても、児童に対する虐待は起こるべくして起こる。その不可避の悲劇を「未だ規制が甘い証拠だ」として、さらなる規制を都民に強いることは、法による規制の際限ない拡大を引き起こすこととなり、全体主義に至る「隷属への道」に他ならない。法による規制には限界があるということを協議会のコンセンサスとしたうえで、規制によって一般都民が受ける不利益と、保護される人々の法益とを慎重に比較考量していく必要がある。そして、規制後のデータを詳細に分析し、規制によって犯罪は本当に減ったのか、減ったとして、その減少量と規制によって一般都民が受ける不利益とを比べたらどうか、等、常に客観的な規制の評価を行っていくことが重要である。

4.「気がする」で法令を作ってはならない。
 委員による具体的なデータの挙証がない発言が目立つが、「児童の凶悪犯罪が増えている気がする」「漫画やアニメやインターネットのせいな気がする」で法令を作成することは許されない。現代社会において、児童の凶悪犯罪は昔に比べて積極的に報道されるように変化してきており、その数は一見はなはだしく増加しているように見えるが、児童による凶悪犯罪の発生率は60年代と比して激減しており、現代のメディアを規制することで、東京都をその当時の環境に近づけようとすることは、再び少年の凶悪な側面を呼び覚ます可能性が否定できない。委員は「気がする」で法令の策定を行うことを厳に慎み、科学的な実証的なデータをもとに、より合理的な議論を行うことが求められる。

5.保護者によるフィルタリングの解除を妨害することは違法である。
 一種の検閲であるフィルタリングは、当事者との明確な合意を得た上で行われるべき政策であり、保護者は児童の法定代理人である以上、その意思に反してなお、フィルタリング機能を強制されることは検閲の実施に他ならず、憲法第21条に一義的に違反する。
 また、このような制度は保護者の意思決定能力を過小評価するものであり、協議会が保護者という存在を蔑視し、「保護者は頭が悪いから都が導いてあげる必要がある」と認識していると思われても弁明の余地がない。都は、児童の最大の理解者であるべき保護者が、「このような規制はもはや必要ない」と信じる時は、その意思を尊重すべきであるし、そのような適度な権限の委任が、保護者の携帯電話に対するリテラシーを高めるのに役立つと考えられる。

6.フィルタリングから除外するサイトを策定する方法は不適切。
 常識的に考えて、インターネット上には「児童に被害を与える」類のサイトのほうが圧倒的に少数であり、サーバやドメイン名、サイトに表示される文字などに応じた技術的な規制を行えば、大部分の有害サイトは児童に見せないことが可能である。そこから漏れたものに対しては、手動で排除していけば足る。
 一方で、協議会が「見せたい」サイトのみを表示可能にすると、ネット上の大部分は隠匿され、児童が18歳を迎えてからフィルタリングのないインターネットに直面すると、あまりの落差に衝撃を受ける可能性がある。また、その場合、児童は18歳からインターネットに関する知識やリテラシーを一から身に着けざるをえず、他の道府県民と比して、都出身の成年はITの知識が必須の現代社会において、人材として使い物にならなくなる可能性がある。プログラムやパソコンを用いた芸術表現等においても、日々インターネット上で技術の交換や作品の発表が行われており、こういった時代の流れから隔離されて育った子供は、一定の職業に就くにあたって甚だしく不利なスタートを切らざるをえず、そのような実質的な職業制限を行うことが、児童保護の名の下に行われることが許されるとは思えない。また、憲法21条1項に照らしても、児童の意思を無視して一方的に行われるフィルタリングが児童の職業選択の自由をも奪うのだから、これを公共の福祉による制限としてとらえるには限界がある。

7.「ジュニアアイドル誌」へ子どもの売り込みを行っただけでは、保護者にはなんら問題はない。
 問題なのは児童の意思であり、保護者が児童の意思に応じて、あるいは同意を得て、ジュニアアイドル誌へ売り込みを行うことは、純然たる私的自治の範囲内であり、保護者の行為になんら責められる筋合いはない。
 重要なのは児童がアイドル活動を嫌がったり、あるいは心境の変化によって嫌になった場合に、それにも関わらず保護者がアイドル活動を強要した場合である。この場合は、刑法の強要罪が成立しにくい場合も考えられるから、その点を条例で補えばよい。
 また、ジュニアアイドルとして活動したことのある児童が、成年後、そのことについて後悔していたり、業界内に問題がある場合には、積極的に都が介入し、業界の体質改善を行政指導したり、元ジュニアアイドルたちの「声」を、世間一般に広告する必要がある。

 (以上、提出意見)

 ***

 以下、雑感です。

 あるニコマスPとメールでやりとりをする中で思ったのは、やっぱり、ニコマスの繁栄はうたかたの夢なんじゃないかということですね。昔から脆い、儚い存在だと思って見てきましたが、最近確信に変わりつつあります。
 しかし、それはニコマスだけではなくて、オタク文化全体についても同じことが言えます。最近のオタク文化に対する風当たりは本当に強い。ある意味、我々の文化は大きくなりすぎたのかもしれませんね。ライブドアや村上ファンドのように、「出る杭は叩き潰せ」というわけでしょう。バウハウスなどの前衛芸術がナチスによって「退廃芸術」の烙印を押され、禁止されたのを思い出します。その後に起こるのは、人類がうんざりするほど見てきたおなじみの悲劇、戦争です。
 浮世絵と春画の例を出すまでもなく、日本の大衆文化はエロとガチが連続なんですね。西洋のように断絶していません。だから人権原理主義者たちのいう「漫画やアニメ、ゲームそのものを取り締まらなければならない」という思想は、実は核心を突いています。オタク文化において、エロを取り締まることができる理論や口実さえあれば、最終的にはジブリの作品だって取り締まれる。未来少年コナンにもパンチラはあります。これを「準児童ポルノ」といって取り締まることは可能だし、それが彼らの望みなんですね。
 だから困ったことに、オタク文化にとって、エロは最終防衛線なんです。私は正直、強姦を煽るような表現とかは自粛してほしいと思ってますが、しかし、ここを守れなければ、多分、風の谷のナウシカや、ガンダムも守れません。「セイラ・マス」は名前に問題があるといって、名前を変更させることも可能でしょう。そうして、法律が作品の中に口を出すようになっていく。ただの表現統制ですよ。私は21世紀の全体主義は、「人権」をドグマとして掲げると確信してます。そしてそれは、キリスト教のような一神教の排他性と、実によく馴染むのです。
 私だって、妥協はしたい。「強姦表現は単純所持も規制すべき」といって、善良な市民を気取りたいですよ。けれども、この連中の欲望は底なしなんです。彼らは法律が犯罪を減らすと思っていて、しかも、犯罪が起こる限りは、規制を強くしたいと思ってる。この考え方の弱点が分かりますか? 刑罰で犯罪は大して減らないのに、彼らは犯罪が一件でも起こる限り、法律を強化し続けることになり、「法のインフレ」が起こってしまうのです。法律はこれ以上規制が不可能なところまで強化され、一般大衆は中世の農奴のごとく「人権主義」に支配されることになるでしょう。それでも人権原理主義者たちは全く気にしない。彼らにとって人権の保護とは、社会的コストを無視しても構わない神聖なものだからです。そして自分たちの掲げる正義のもとに、一億人民が「児童の人権」の前にひざまずくその姿こそ、彼らが求める勝利の光景なのです。
 私はこの狂信者たちと戦いたいと思ってますが、全然力が足りません。思うにわいせつ論というのは、あまり理論も洗練されておらず、信者たちの「あなたも児童と性行為をしたい人間なんですか?」という攻撃に対して、非常に脆い。もっと勉強して、理論を深めないといけません。いくつか考えはあるんですが、アイディアの域を出てません。幸い、今のところ規制反対派のほうが理論的には充実してるので、これを真っ当な「わいせつ論」のレベルまで高めていけるといいですね。
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