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非アイマス 能 : 『能に憑かれた権力者たち』読書メモ
 『能に憑かれた権力者たち』という本が結構面白かったので、メモ。

1.信長は鼓の名手だった。
 細川藤孝の邸で足利義昭が能を催した際、信長は義昭に鼓の実演を所望されたが、断った。しかし信長がやれと言われたのは「道成寺」という秘曲で、現代ではこれを素人がやるのはおよそ考えられない。その理由は曲の途中に「乱拍子」という、独特な、一種の奥義として伝えられる一節があるから。だから子供の時から鼓を習っている人でも、まともな舞台の上で発表することは、多分一生ない。それをやれと言われたのだから、信長は相当鼓が上手かった可能性がある。
 ただし信長にとって能はあくまで「娯楽」であって、秀吉のように能狂いになることはなかった。長男の信忠が能にハマっていると知った時は、怒って道具一式を取り上げている。信長にとって能は、あくまで武将が「嗜む」ものであって、熱中すべきものではなかった。ただしこの時、実は信雄と信孝も能にハマっていたのだが、親父にバレずに済んだというオチがついている。
 ちなみにこの「能」を、「テレビゲーム」「漫画」「携帯」に置き換えれば、現代人もニンマリできること請け合いである。

2.家康は結構、能が上手かったかも。
 家康は人質時代、観世十郎太夫から、少なくとも謡の稽古を受けていたようだ。
 役者としての腕前はよく分からないけれども、聚楽第で『船弁慶』をやった際は、下手で見てておかしかったという。しかし『武辺談判』はこの時のことを、家康が秀吉の前で熱演するのを嫌ったためだと見ている。つまり、実は上手いのに、手を抜いていたのだと解釈している。これが本当なら、家康も役者として能が上手かった可能性がある。

3.細川藤孝の大鼓(おおかわ)はチート級。
 古今伝授、塚原卜伝から習った剣術、弓術、茶道、蹴鞠と「戦国最強の文化人」とも言える細川藤孝。im@s架空戦記では将軍家の名脇役としていぶし銀の魅力を放つ彼だが、実は能の大鼓も上手かった。演奏を聞いたプロの大鼓の奏者が感動(絶望?)で泣いてしてしまったり、若い大鼓のプロが、わざわざ彼のところまで「懺法」という特殊な大鼓の演奏を習いに来たりしたらしい。「いや、お前の周りにいるプロに習えよw」と言いたくなるのは私だけではあるまいw とにかく相当の腕前だったようだ。
 ちなみに長男の細川忠興も能の役者が出来た。記録では17年で83回もシテ(主役)を演じているというから、相当なものだろう。

4.秀吉が能に狂ったのは最晩年の6年間だけ。
 意外なことに、秀吉はずっと茶の湯にばかりハマっており、能に興味を示し始めたのは57歳からの5年間だけ。ただしそこからのハマりようは尋常でなく、自分の業績を称える十番の能、いわゆる「豊公能」を作らせた。それは「仏となって現れた大政所が秀吉の孝行を称える」などといった自画自賛モノで、これを自分で(秀吉の役を)演じたというのだから、やはりただ者ではない。
 また、秀吉がわずか50日間で10曲の能を覚え、それを人前で披露したということから、当時の能が素人にも覚えやすく、今のような大曲志向ではない、短編的な性格のものであったことが分かる。1日に13番やることもあったというから、現在の一曲90?120分以上かかるものとは全く違ったものであったろうことは想像に難くない。

5.観世太夫身愛(ただちか)が秀吉の能の途中で居眠り。秀吉激怒。
 表題の通り。このブログでも一度書いたかもしれない。それくらい有名な話。安土桃山時代から、既に能は眠かったwww
 処分は能の道具や書物を一時的に没収した上で、米の配給を止めるというもの。秀吉の怒りが伝わってくるw

6.その他、能を嗜んでいた武将たち
 以下、秀吉が催した禁中能(舞台は紫宸殿前に設置したらしい)の記録から抜粋。
 浅野長政(ワキ)、宇喜多秀家(シテ)、織田秀信(シテ、ツレ。当時14歳)、蒲生氏郷(シテ)、小早川秀秋(シテ。当時12歳)、徳川秀忠(小鼓。当時15歳)、前田利家(シテ、狂言)、毛利輝元(小鼓。あまりの上手さに周りがびっくり)。
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