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2009年下半期ニコマス二十選 推薦動画詳論 : アイドルマスター やよい 伊織 『グロウアップ』
<注意>
 このエントリは特殊な形式に則って書かれていますので、
 「注意事項」のエントリに目を通した上で、以下の文章にお進みください。

 エコノミーP
 

 やよいおりは至高である。だがその表現となると難しい。特に原作ゲームではアイドル同士の横のつながりはゼロに等しく、当然映像もないので、やろうと思えば作るしかない。そのため「やよいおり」を動画で濃密に描こうとすると、どうしても手描きMADや架空戦記、ノベマスになりやすかったように思う。アイドルたちは、ダンスでは観客、コミュではプロデューサーに対して表現行為を行うが、アイドル同士がゲーム中に何らかのコミュニケーションを取ることは、原作では全くと言っていいほど映像化されていない。ゆえに映像素材を用いるPVMADが、「やよいおり」というアイドル二人の「関係」を描くのは、まさしく至難の業だった。
 そう、やよいおりは「関係」である。このブログでは既に何度か触れたことがあるが、美は「存在」と「関係」から成り立っている。我々はついつい、美とは「存在の美」にすぎないと思いがちだ。たとえば我々はある絵画を褒める時、その部分的な要素を重視しがちである。この表情、このデッサン力、そしてこの質感・・・だが実際に我々の感性が言語にならない部分で感じ取っているのは、そんな表面的な部分の総和ではない。ある物体とある物体とがもたらすどっしりとした安定感、どこまでも続く青空と草原との鮮烈な色彩の対比、そして全体の構図。甚だしい時には、キャンバスに描かれていないはずの、激しく火花を散らし合う二人の視線すら「見える」。それらは単純かつ部分的な、物体、つまり「存在」の美しさではない。その作品の中で描かれた「存在」と「存在」とが生み出す、有形的でない何か、つまり「関係」の美しさなのである。だから一つ一つの物体をいかにリアルに、丁寧に、本物っぽく描いても、真の芸術家の「写実性」には適わない。彼らは物体と物体とが織りなす「関係」に着目し、時には物体それ自体の「写実性」を犠牲にしてでも、その「関係の美」と「存在の美」を両立させようとするからだ。「存在の美」だけをいくら追求しても、存在間の関係が死んでいるようでは、作品そのものも死んでしまう。我々が複数の物体を目にする時に感じる「不安定だな」「ぎっしり詰まってるな」「互いに支え合っているようで面白いな」といった存在間の「関係」も、その映像が有する重要な情報であり、真実であるからだ。
 ひるがえって、やよいおりはどうか。やよいがいて、伊織がいる。それだけでは「やよいと伊織」である。「やよいおり」ではない。では一体「やよいおり」とは何なのだろうか。実際に想像してみればよい。二人の正反対とも思える「ツンデレ」と「素直」という性格、にも関わらず、なぜか伊織にはタメ口のやよい、友情とも愛情ともつかぬ淡い相互感情、それら全ての要素が優しく温かく二人を包み込んで初めて、我々はそれを「やよいおり」と呼ぶ。やよいというキャラ、伊織というキャラ、その個別では独立したキャラに過ぎない両者が、向き合い、語り合い、見つめ合い、あるいは手を取り合って始めて生まれるその両者の「関係」こそが「やよいおり」なのである。事実、大百科の「やよいおり」の項目に並ぶ素晴らしいお絵カキコの数々は、いずれも二人の「関係」を明示的に表現したものだ。この例一つをとっても、やよいおりは存在の和ではなく、二人の存在が織り成す関係の綾であることが分かるだろう。
 しかし、繰り返すが、この両者の「関係」をPVで描くことは、困難を極めた。観客を向いて踊るダンス、プロデューサに対して取る感情表現、それらの動画素材を直接使うだけでは、二人の「関係」を描くことはできないからだ。唯一、デュオでダンスをする際に、二人の「関係」を妄想できるような動作が生まれることはあった。umg1nL25DFLQMPの「アイドルマスター 歌ってる最中やよいのグラビアミズギが大変なことに」の1:58に見られるような、「GO MY WAY」のラストの、二人が互いに目配せし合う動きなどがそれである。が、初期のPVにおいては、そういった関係は特に重視されずに、二人が楽しそうにデュオで踊っているだけで「やよいおり」とされた。オンナスキーPの「やよいおり アイドルマスター やよい 伊織 巫女みこナース」や、あるつPの「アイドルマスター CARAMELLDANSEN ループじゃないよ」がそれである。やよいと伊織の二人が、楽しそうに並んで踊ってくれれば、視聴者にとって、それは「やよいおり」であった。それで、十分満足出来たのである。
 しかし、文字と立ち絵でストーリーを構築出来る架空戦記やノベマス、あるいはM@co.jPの「アイドルマスター 「ノート」 伊織☆やよい」に代表される手描きMADによって「やよいおり」は濃密に描写されるようになる。やよいおり表現に関して、PVに大きな制約があることは明らかであったが、これに対するPV側の一つの回答は、メイPの「アイドルマスター 伊織、暴れだす。」のように、台詞などの文章を直接PVに挿入することであった。この文章挿入という表現形式は、その後、やよいおりPV作品では一般的な表現となり、たとえば「やよいおり」PVの一つの頂点、tloPの「ライオン?伊織とやよいのサバイバル」においても見ることが出来る。台詞や文字の挿入が、PVで二人の関係を描く上で、強力な武器の一つになったことは間違いないだろう。
 tloPの「ライオン?伊織とやよいのサバイバル」は、確かにやよいおり作品の金字塔だ。ただ、この作品はPVでやよいおりを扱う上での、最大の問題点をも明らかにしている。これまで「やよいおり」を描くこととは、二人の仲の良さを描くことであった。にも関わらず、PVでは素材の制約からそれが思うように出来ない。そこでこの作品が取った手段が、二人の楽しかった日々の「崩壊」を描くことによって、逆説的に二人の「楽しかった日々」、すなわち我々の妄想する、一般的な意味での「やよいおり」を視聴者の胸に呼び覚まそうというものであった。この作品にも「やよいおり」は登場するが、二人の「仲の良さそうな映像」は、ほとんど「燃える二人の写真」くらいしかない。それ以外は基本的に、二人の悲しい関係を描いたものだ。我々の脳内には楽しげなやよいと伊織の姿が事前情報としてあるからこそ、それが崩壊したさまを描くことで、我々の脳内には幸福であったはずの二人の姿が、より強く鮮明に、感傷的に想起されるのである。このことは、この「ライオン」の3:31からの二人の描写からも見て取れる。3:34あたりから伊織がやよいの方を振り返るのだが、二人の目が合う頃には、それぞれを別々に写したカットに移行してしまう。これは通常のやよいおりのPVでもよく見られる表現だ。というか、こうするしかないのだ。二人が何か楽しそうに言葉を交わすような一カットの動画を加工で捏造することは、著しく困難を極めるのである。
 しかし、そんなことはtloPは百も承知だ。彼には考えがあった。あるいは彼の感性が、一つの答えを教えていた。それは「二人の心が通い合うよう描写をするのが難しいなら、二人の心がすれ違う描写をすればいい」ということだった。これは一見何の解決策にもなっていないようだが、それが一体どういうことなのかは、この動画最大の見せ場にして、PVMAD史上最も感動的な「やよいおり」である3:49からを見ればいい。割れるガラスのような物体がこれから起こる「何か」を予兆させながら、画面両端から歩いてきた二人が、すれ違う。私はこのシーンで涙腺がやられた。まっすぐ歩く二人は、互いのことを見てはいない。それは当たり前で、このモーションは、もともと「相手」の存在を全く前提としていないモーションだからだ。そんな「孤立した」二人が歩いてきて、すれ違う。誰もが「個」へと疎外されていくこの疲弊した世界で、誰よりも深い絆で結ばれ合ったはずの二人が――。
 素材となるモーションが孤立しているなら、本来孤立していないはずの二人が、孤立したモーションですれ違うことにすればいい。そうすれば、視聴者は本来の「仲のいい二人」を悲しく思い出すことで、身を切るような切なさに悶え苦しむことになるのだ。関係性の欠如したモーションの弱点を、破壊的な感動の源に変えたこの演出は、程度の差こそあれ今までも様々なPVの中で使われてきたことと思うが、ここまで効果的に使われた例を、寡聞にして知らない。そしてこの、最も「やよいおり」が破壊されたシーンの直後に、tloPはまた、この動画で最も温かい関係にある「やよいおり」を持ってくる。3:57からの、伊織がやよいを振り返り、「さあ、行きましょう」とでも言いたそうに、自らの行く方向へとやよいを導くシーンである。この作品の感動の源は、この落差であろう。誰もが頭の中で思い描く濃密な「やよいおり」を前提としつつ、アイマスの「孤立した」モーションを徹底的に活かしてその対立と崩壊を描き、しかしそれだけに留まらず、このように「この対決はあくまでも、一時的なものなんだ」という一抹の救いを残すのである。ため息。ただ、それしかない。「美は人を沈黙させる」とは、まさしくこのような作品に捧げるためにある言葉であろう。
 以上により、この「ライオン」が最高峰の「やよいおり」であることに異存はないが、ただ一つだけ思い出してほしいのは、ここで我々が感じる感動は、濃密な「やよいおり」そのものではないということだ。何度でも繰り返すが、この作品は我々の脳内の幸福な「やよいおり」を前提とした上で、その崩壊を描き、そのことによって我々が切ない気持ちで二人の真実の「関係」に想いを馳せるものであって、濃密な「やよいおり」そのものは、間接的にしか描写されていないのである。このことが、この作品における最大のアドバンテージであると共に、PVにおける「やよいおり」描写の難しさをも同時に物語っている。誤解のないよう付言するが、筆者はこのことをもって「この作品のやよいおり描写は不完全だ」などと言っているのではない。ただ、このような表現が素材の制約上最強だとしてしまうと、やよいと伊織の幸福な姿をもっとPVで見たいという、視聴者の飽くなき欲求は満たされないのかということである。筆者が「ライオン?伊織とやよいのサバイバル」を二十選から外したのは、このことに一抹の寂しさを覚えたからだ。確かにこの作品は素晴らしい。だが、もっと、二人の幸せな姿が見たい――。
 その答えとなるかのような作品が、「ライオン」の5日前に投稿されていた。本項で推薦するエコノミーPの「アイドルマスター やよい 伊織 『グロウアップ』」である。やよいおりをPVで表現するために、2007年から3年間に渡って蓄積されてきた様々な先人たちの知恵が、ぎゅっと詰め込まれたかのような作品だ。動画の再生開始から、二人が時間差で同じ動きをするが、切り抜かれた二人の距離は通常のステージ上よりもグッと縮まっており、「この二人の仲の良さを描きたい!」という強い意志が感じられる。0:10からは静止画で二人のスナップ写真のような画像が何枚も出るが、静止画なら二人の幸福な姿を描きやすいということは、先程の「ライオン?伊織とやよいのサバイバル」の燃える写真でもそうだったし、やよいおりを描いたもう一つの「ライオン」である 、ひろ。P の「アイドルマスター やよいおり ライオン」でも、最後の画像は背中を合わせて微笑む二人の静止画だった。この「背中を合わせた二人」というのは、アイドルがほとんど「孤立」してしまっているアイマスの画像素材でも「二人の仲の良さ」を描きやすい手法のようで、エコノミーPも0:12から、背中を合わせて歌う二人を動画で実現している。しかし、本当にすごいのは0:23からだ。接近して踊り始めた二人は、くるりと一回転した後0:27で向き合い、見つめ合う(ように見える)。そして何かを確かめ合うかのように二人で頷きながら、一緒に手を合わせて踊るのである。最後はだめ押しとばかりに、もう一度頷き合ってから、笑顔で一斉にジャンプ! 最高だ。これだ。私が見たかったやよいおりは、これなのだ!
 やよいと伊織の関係を描いたPVは、これまでにもあった。「やよいおり」のタグの付いたPVで、二人の関係に想いを馳せない作品など一つもない。二人がステージ上にいるだけで、顔が緩んでしまうようなこの幸福感こそ、「やよいおり」の一つの特性でもあるからだ。しかしこれほどまでに、二人が向き合い、互いに愛情を注ぎながら、幸せいっぱいで踊るPVを、私は知らない。この動画は他にも、先述した「GO MY WAY!!」のデュオで二人が合図し合う動作だとか(この動画では1:43から)、1:49からの、二人が同じ動作を交互に何度も繰り返すシーンなど、やよいおりPVで培われた技術を惜しげもなく注ぎ込んでおり、正統派やよいおりPVの総括とも呼べる作品だ。また0:47でやよいが、0:59で伊織が椅子に座るなど、スパイスとなる面白いギミックも十分にある。が、私が評価するのは、やはり技術のための技術でないことだ。
 もちろん、技術の凄さで相手を感動させるために技術を披露することも、一つの芸である。これを「技術があるだけ」などといって攻撃し、いたずらに軽蔑するのは、「精神性」などという曖昧なものを、動画評価における唯一絶対の基準にしてしまうという意味で、大変危険なことだ。先日のバンクーバーオリンピックにおける、フィギュアスケートの「芸術点」に関する議論などを見ても、これは自明である。
 しかし同様に、何がしかの感情を伝えるコミュニケーションの手段として技術を使うことも、やはり素晴らしい芸である。筆者はこの両者に優劣を感じるものではないが、前者は「技術の凄さ」が我々素人にも分かりやすく、かつ「どっちの技術がすごいか」という単純な優劣をどうしても感じてしまいやすいため、いわゆる「技術のインフレ」を招きやすい。これに対して、後者は感情や感動という個人的なものを扱うため、人によって評価が分かれやすく、同じ技術なのに「技術のインフレ」が起こりにくいことが特徴だ。あの「3A07」にすらアンチが付き、それが主にストーリーに関するものであることからも、これは自明だろう。ただし、繰り返すが、筆者は両者を共に「技術」だと思っており、「感動」を絶対化するあまり、努力と研鑽の結果生まれる純粋な「技術」を、いたずらに軽蔑することがあってはならないと思っている。
 いずれにせよ、「やよいと伊織の仲の良さを描く」という明確なテーマがあって、そのために様々な技術が投入され、それがただの技術の披露に終わらず、当初の目的通り、いままで困難だった「やよいと伊織の幸福な姿」を「動画で」描くことに成功している本作を、筆者は二十選の一に推す。二人の亀裂を描くことで、逆説的に二人の幸福な姿を儚く幻視させた「ライオン?伊織とやよいのサバイバル」に対して、オーソドックスで伝統的な技術や工夫を積み重ねつつ、さらにその一歩先へ進んで「幸福な二人」を描くPV表現の限界を押し上げた本作。この陰と陽、まさに「やよいおり」の如く表裏一体を成す二つの傑作から、私は「グロウアップ」を選んだ。しかし、最も注目すべきは、やはりそれぞれの作品そのものよりも、両者の「関係」であろう。「やよい」と「伊織」が好きなのではない。「やよいおり」が好きなのだ。同様にこの二つの作品も、二つ合わせて初めて、ニコマスが至ったやよいおり表現の奥深さを感じ取ることが出来る。本稿が、惜しくも選外となった「ライオン?伊織とやよいのサバイバル」の感想に長大な文字数を割いたのは、このためである。本稿が両作品の「関係」をいささかでも(評論という卑しい手法を用いてではあるが)表現できているなら幸いである。
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