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「Twitterで歌詞をつぶやいたらJASRACの利用料が発生する」件について
 非アイマスです。

 もう有名になってるので、皆さん知ってると思いますが、この件について一言書いておきます。
 ニコ動の記事へのリンクはこちら

 大体このブログで何回も言ってきたことの繰り返しですが、また問題点と私の主張を軽くまとめておきます。
 ただ、しばらく著作権の勉強を怠っていたのと、あまりエントリを推敲する時間がないので、怪しい部分も多々あります。情報を過信しないよう注意してください。
 ***

<1.JASRACの主張に「法的な正当性」があることは間違いない>
 日本の著作権法に定められた著作権というのは、禁止権です。要するに、原則として著作物のあらゆる利用を禁止し、法律で例外として認められたものか、著作権者の許諾がある場合にのみ利用が合法となり、あとは全部違法になります。
 これは無茶苦茶だということで、せめて条文には書いてなくても、「公正な利用である」と裁判所が認めたものについては合法にしようというのが、フェアユースという考え方です。が、JASRACなどは「法律で決めればいいじゃないか」と言ってます。それは確かに正論で、法律で決めるのならば、国民が「これは合法化すべきだ」と思ったものが合法化されるはずです。しかし、現実には「著作権をどうするか」で政治家が選ばれることなどありえず、また文化庁とJASRACなどの団体が天下りを通して強固に結びついており、法律を決めるための審議会では、圧倒的多数が著作権者側の人間で占められ、その人たちの話し合いを「やっぱりこんなの、認められませんよねーw」と文化庁がまとめ、それに基づいて法律を強化していくわけです。これでは国民の意志なんて全く通らないので、痺れを切らした人たちが、「個別の法改正なんて働きかけても埒があかん。もうフェアユースを認めろ」と言い出したわけです。
 で、現在のところ、裁判所は非常に厳格かつ形式的に著作権法を解釈しており、フェアユース的な「これはいくらなんでも権利を振りかざしすぎだ。公益を考えて権利を認めないでおこう」としたことは、私の記憶にある限りでは、一つもありません。民法1条3項には「権利の濫用は、これを許さない」という一般規定があって、たとえ法的に認められた正当な権利であっても、それを濫用して他人の権利を不当に侵害することがあれば、それは違法行為になります。そして著作権にもこれを適用することは可能なのですが、フェアユース的な「公正利用」の観点からこれを適用して著作権を制限したことは、私の知る限り、ありません。著作権がらみの事件でこの「権利濫用法理」が出てきた判例が一つあったのを覚えていますが、確か、著作権そのものを制限したものではなかったはずです。まあ、だからそんな滅多に適用されない条文ではなく、著作権法の中に、「公正な利用は合法である」という一般規定を作れというのが、フェアユース派の主張です。
 ということで、公衆送信権(著作物をネットなどで送信することを禁止する権利)を明確に侵害している上、裁判所の判断が形式的であり、権利濫用法理が適用されることも考えにくいので、JASRACの主張に「法的な正当性」があることは間違いないでしょう。

<2.「私的自治の原則」の確認>
 まず「違法行為」というのは、何かとんでもないことのように思われやすい言葉ですが、実は当たり前のように誰でもしてしまう行為です。
 たとえばあなたが、友達から借りた自転車を壊してしまったとしましょう。すると、それは違法行為、法律用語で言うところの不法行為です。だから、友達が「弁償しろ!」と言ったら、お金を払わなければならず、あなたが払わないで無視しているうちに、相手に裁判でも起こされたら、裁判所から賠償金○○万円を払えという判決が出てしまうわけですね。
 しかしながら、友達は許してくれることもあります。その場合、お金は払わなくていいわけです。当たり前ですね。自転車の所有権者が「賠償はいいよ」と言ってるんだから、払わなくていいのは当然です。そこに警察が出てきて、「いや、こいつのやったことは違法行為だ。悪いことだ。だから賠償金を取れ」というのはおかしいわけです。権利を持ってる人間が「別にいい」と言ってるんなら、それでいいことにする。これが私的自治の原則という、民法の大原則です。
 しかし、著作権の問題ではこれが上手く働いていないので問題になっているわけです。

 ちなみに参考までに書いておくと、こういう民法上の「違法行為(不法行為)」と異なり、刑法に定められた「犯罪」というのはどういうものかというと、被害者が許しても、政府が放置するわけにはいかないものです。たとえば強盗に家に押し入られて怪我をした人が、「いやいや、大してお金も取られてないし、かすり傷ですから、犯人を捕まえるのはやめてください」と言ったからといって、警察が「そうですか。被害者であるあなたがそう言うんなら、犯人は放置しましょう」と言ったら、周辺住民は「ふざけんな! そんな奴がうろついてるんなら、被害者の意見なんて無視して、今すぐ捕まえろ!」と言うでしょう。だから権利を侵害された権利者、つまり被害者が「別にいいよ」と言っても、その意思を無視してでも、社会のために、警察は犯人をつかまえるわけですね。これが刑法の「犯罪」です。
 これに対して、自転車を壊した人は、自転車の持ち主が「別にいいよ」と無罪放免にしても、社会は特に困らないわけです。だからそれで済んでしまいます。これが民法上の不法行為であり、このような権利のことを、私的な権利なので「私権」というわけですね。
 ただ、著作権の場合は、ファイル共有ソフトで大量にソフトを無料でやり取りする人などがいるので、権利の侵害者を警察が社会のために捕まえるべき時もあります。そのため著作権等侵害罪は親告罪として、権利者が告訴すれば、警察が捕まえることも出来るようになっているわけです。この意味で、著作権という権利は、完全な私権ではなく、公的社会的な側面を持つ権利と言えるでしょう。

 
<3.それが「クリエイターの意思」か?>
 そもそも、著作者が全部一人で権利を管理していれば、「これくらいネットに書かれても、別にいいや。料金を請求するなんて、強硬なことはやめておこう」と思えば、それで何も問題ありません。先述した「私的自治の原則」ですね。権利者本人がそう思ってるんだから、別にいいわけです。
 が、曲や歌詞を沢山作ると、それをクリエイター本人が全て管理することは難しいことが多いし、本業である創作に専念したい人も多いわけです。だから、著作者(クリエイター)は、JASRACに自分が持っている著作権を「信託」します。要するに、この著作権をJASRACに預けますから、JASRACの思う通りに運用して、お金を集めて、私にください、その代わりその料金の一部をマージンとしてあげますよ、というわけです。
 ところがこれをやるとどういうことが起こるかというと、JASRACとしては著作権をフルに使って、違法行為からは全て料金を徴収した方が儲かるので、違法行為(=著作権侵害)を、全て取り締まるわけです。そこには、著作権者自身の、「これくらいなら、自分の宣伝にもなるし別にいいかな」などという判断が一切働きません。全ての侵害が料金を請求されてしまう。すると、私的自治の原則で本来働くはずの、「権利者本人の許諾の意思」が、どこかへ行ってしまうのです。消えてなくなってしまう。
 もちろん、JASRACに著作権を信託した段階で、「あらゆる権利侵害から料金を徴収する」という契約上の合意があるんだから、それも「著作権者の意思」じゃないか、という人もいるでしょう。それはまさに、先述したように「法律上は」その通りです。
 しかしながら、たとえば派遣社員が契約を途中で打ち切られたりするのは、契約上法律上は全く正しいことなのですが、それが「本人の意思」でないことが多々あるため、問題になっているわけです。要するに、雇用する側が有利な立場にいるため、そのような契約を結ばざるをえないから結んでいるだけであって、本来ならもっと違う契約を結びたいわけです。労働者と使用者はこのように自由に契約を結ばせると一方的に労働者が不利になることが多いため、労働基準法などで、「こういう契約は結んではいかん」と定められているわけですね。
 JASRACと著作権者の信託契約も全く同じです。クリエイターは、所属する音楽レーベルやJASRACに対して一方的に不利な立場にいるため、どうしても不利な契約を結んでしまいやすい。しかも著作権の契約には、労働基準法に当たるものが一切存在しないため、往々にして、JASRACやレーベルは自分の要求を押し通すことが出来る。というか、クリエイターというのは概してそういった法律的なものに弱いか無関心なので、そこにつけ込まれることが多いわけですね。だからいざ問題が起こってから多くのクリエイターが訴訟を起こすんですが、「そういう契約を結んでるじゃないか」で負けてしまいます。
 だから「違法なものは全部取り締まって料金を徴収してくれ」という契約を、クリエイターがJASRACと結んでいることは確かなのですが、それが必ずしもクリエイターの自由意志でないことが、問題の本質であるわけです。
 これは派遣問題やらなんやらと同じで、「よく契約書を見て、考えて契約しろ」では解決しない問題です。JASRAC以外の著作権管理団体と契約したり、音楽出版社と契約の内容について交渉することなどが現実的でないこともあって、著作権管理団体や音楽出版社が、自分たちにとって一方的に有利な契約を結べないように規制する、「著作権契約基準法」とでも言うべきものの制定が必要なのです。これは何十年も前から言われ続けてることです。

<4.「著作権侵害=犯罪」ではない>
 未確認情報ですが、菅原理事はtwitter上で歌詞を発言することが「著作権法に抵触する」と言ったそうです。いかにも「犯罪である」というかのような表現ですね。しかし、何度も言いますが、著作権法は私法であり、その権利は私権であり、私的自治の原則に基づくため、著作権侵害というのは、他人の自転車を壊してしまったことと同じです。つまり、所有権者が「金払え!」と言ったら当然払わなければなりませんが、必死に謝った結果、所有権者が「分かりました、別にいいですよ。もうやらないでくださいね」と言ってくれれば、それで済むわけです。
 が、JASRACには「別にいいですよ」というつもりが一切なく、たとえば違法アップロード物をサイトから消しても、「1年間載せてたんだから、これだけ払え」と言ってきたりするわけです。そこが実際の権利者と交渉する時と違い、機械的になってしまうために、JASRACは恨まれるんですね。その上「抵触する」などという言葉から分かる通り、彼ら自身が「著作権を侵害したら、絶対にお金を払わなければいけない」というドグマを信仰してしまっているために、交渉しても一歩も譲らず、最後には訴訟になってさらに恨まれるわけです。
 もっと別の例で考えた方が分かりやすいでしょうか。たとえば自転車を購入したら「自転車所有権保護協会」という団体に加入を義務付けられるとします。すると、たまにそこから「あなたの自転車の所有権によって、200円の利益が上がったので、180円をお送りします」といってお金が送られてくるわけです。あなたは喜びますね。なんていい団体なんだろう。俺の所有権をちゃんと守ってくれてる。ところが実際には、それが間違えてあなたの自転車を倒してかすり傷を付けてしまった人から、200円の損害賠償を取った結果だったりするわけです。これは、もしあなたがその現場にいたら、「あ、俺の自転車に傷つけやがって。不愉快だなあ。ま、いいか」で終わるはずです。あるいは、ちょっと説教する人もいるでしょうが、やはり、それで終わりです。よっぽどの損害でない限り、お金を請求することは、まずない。しかし、協会が「権利保護」を代行することで、「自転車に加えられたあらゆる損害に対しては、賠償を請求出来る」という私的自治の原則が、いつの間にやら「自転車に加えられたあらゆる損害に対しては、賠償を請求しなければならない」にすり替わってしまう。
 こうして、「権利を行使できる」が「権利を行使しなければならない」にすり替わった結果、JASRACは全ての侵害に対して権利を行使し、またそのJASRACのプロパガンダに洗脳されてしまって、「あらゆる著作権侵害をすることは許されず、した場合は、全て賠償しなければならない」と思ってしまう人が出てくるわけです。しかし、何度でも言いますが、本人が許諾すればいいんです。「他人の自転車を壊したら、絶対に金を払わなければいけない」なんて馬鹿な法律はどこにもないし、それは著作権法も同じです。「著作権を侵害したら、絶対に金を払わなければならない」なんて、著作権法のどこにも書いてありません。「著作権を侵害したら、本人には金を請求する権利がある」のが著作権法です。そして、それは裏を返せば「権利はあるが、必ずしも金を請求しなくてもよい」ということであって、「別にこれくらいならいいよ」という形で許諾があることも多いはずなのですが、それをJASRACが「どんな侵害であれ、全て金を請求する」に変えてしまっているから、話がややこしくなってくる。「自分の権利は全て主張して、貰える金は全て取る」というのでは、これはヤクザと言われてもしょうがない。というか、ヤクザそのものです。
 重要なのは、私的自治の原則に本来働くはずの、権利者本人の、人間的な感情に基づく許諾を、いかにJASRACが確保するかです。たとえば、「著作権者本人ならどうするか」を反映した料金徴収を行うことが考えられます。そのためには、状況に応じて許諾するかしないかの細かいアンケートを事前に取っておき、それに応じて料金徴収を行うなどをすべきでしょう。ネット上の人も、著作権者やクリエイター本人が払えと思っているなら、そういうものは使わないか、あるいはお金を払う人が出てくるでしょう。そういう権利者本人の意思が、画一的な契約の下に機械化され、もっと言えば、権利者の意思が「JASRACにとって都合のいい契約」という形に歪められ、それに基づいた料金徴収が行われているからこその、この反発なのです。
 JASRACはあくまで「権利者の自由意思に基づいて、権利者が金を請求したいと思ったものから金を請求し、中止させたいと思うものを中止させ、許諾したいものを許諾し、見逃したいものを見逃す」という、当たり前の、著作権者の自由意思の代行機関というあるべき姿に立ち返る、あるいはそれが完全な形では実現が不可能でも、一歩でもそこに近づく努力をすることが求められているのです。これはもう、著作権等管理事業法で明文で規定するべきでしょう。ただし、努力義務では行政手続法のように有名無実化する可能性があるので、義務規定にすべきです。

<5.確かに現状では「JASRACのおかげ」だけど・・・>
 最後に、最初にリンクしたニコ動のコラムが、いかにも「JASRACを批判するのはおかしい」とでも言いたげなので、一言だけ。
 現在のニコ動が存続出来てるのは、まさしくJASRACの「見逃し」のおかげです。それはもうどうしようもない事実です。だから我々は、まずJASRACに感謝しなければいけない。
 そしてニコ動のスタッフも、「こうしてJASRAC様の恩寵のおかげでニコ動が存続出来てます」という内容のことを、折にふれて言ってます。それは彼らの立場もあるし、我々のニコ動生活を守るためにはそうするしかないので、ニコ動のスタッフにも、我々は感謝しなければならない。
 しかしながら、永遠にそうし続けるべきとでもいうかのようなことを言ってる人がいるので、私はそれは違うと主張しておきます。
 今のJASRACは、法的には圧倒的に正しい。しかし、その法はJASRACが自分で作ったものであって、我々国民の総意が十分に反映されて決まったものとは、絶対に言えないものです。だからそれは、中世ヨーロッパで言うと、初夜権のある領主が、「村人たちが可哀相だから、俺は初夜権を行使しないよ」と言ってるようなものです。確かに、我々は領主の慈悲に感謝すべきでしょう。しかしながら、それは初夜権なるものの存在がそもそも不当なのであって、本来、そんな権利の行使は許されてはならないのです。だから、我々は初夜権を行使しない領主の思いやりに感謝しつつも、初夜権そのものを廃止するために活動しなければいけない。
 最近、社会から批判されると、「法的に認められた正当な権利だ」ということを主張して居直る人が多いように思います。しかしながら、法は神でもなければ聖書でもない。法律は、我々国民が自由意志に基づいて決めるものです。他人から与えれたものでは絶対にないし、そうなってもいけない。だから、そもそもその「法的に認められた正当な権利」とかいうものを行使することが、人間の倫理や理性に照らして明らかにおかしいのなら、それは法律を変えなければいけないんです。麻原彰晃の死刑を回避するために弁護士が怪しげな手法を行使するのも、「法的に認められた正当な権利」なんでしょうが、そもそもそんなことが出来る権利があるのがおかしいと思うなら、声を上げて、法律の改正に向かって動かなければいけない。何が違法かを決めるのは、我々国民全員です。決して、JASRACや、日本文藝家協会や、文化庁の官僚や、法学者や、人権派弁護士などの、一部の人たちではありません。
 思えばかつて、著作権の保護期間は「永遠」でした。一部の出版社たちが古代ギリシアの古典などの著作権を勝手に主張して、他の出版社に印刷することを禁じていたのです。それを無視して印刷することは違法行為であり、「海賊行為」と呼ばれていました。現在のように保護期間を有限にしたのは、イギリスの海賊版業者が、法廷で戦った結果です。我々は現在、彼ら「犯罪者」の恩恵に浴しているのです。
 法的にどうかは、「今」の問題でしかありません。将来に渡ってもそのような「権利」を認め続けることが、本当に人間として、社会として、文化振興のための法律として正しいことなのか、それを考えなければいけません。今どうすべきかと、将来どうすべきかは、全く別の問題です。権利者の側が一方的に決めてきた今の法律を守ることを、絶対的な「善」だと思ってはいけません。「法律は法律だ」として、今の法律を守ることを重視する人は、往々にして、その法律を改正すべきかどうか、改正するとしたらどんな風に改正するのかなどについて、思考を放棄している人が多いのです。今現在、この法律を遵守するにしても、その法律の客観的な評価をやめてはいけません。繰り返しますが、法は神でも聖書でもなく、我々が作るものなのです。それを法学者や利権団体といった、「聖職者」たちに委ねてしまってはいけません。
 しかし、現在、法はどんどん複雑になり、我々一般人には、到底理解できないものになってきています。条文を読んだだけで法律を語ると、弁護士や法学者が出てきて、「これだから素人は困る。これはこういう風に解釈するんだよ。それが通説・判例だ」と言われてしまう。彼ら「聖職者」を通さないと、法の「正しい」解釈が分からない。要するに、法の「ラテン語聖書化」が進んでいるのです。中世カトリック教会の聖職者たちが聖書の解釈を独占的に決めたように、今、法律家が同様のことをしているわけです。私は、いつか法の世界にも「宗教改革」が起こると思っていますが、今はこの現象に対してこれといった解決策を思いつかないので、とりあえず言えることは、彼らの聖書である法典に対する我々の力、法典を書き換える国民の主権を不断に行使する決意が必要だということです。
 くれぐれも、法に洗脳されないようにしてください。法が悪いことを決めているのではなく、悪いことに対して、我々が法を作ったはずなのです。そして法が悪くないことを禁止しているなら、それは改めなければならない。この当たり前のことを、決して忘れてはいけません。

 以上です。
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やくざの方がましかもw
やくざだってやれることを全部やってるとは思えませんよ?w

と軽い話はさておき、法律論のご説明ありがとうございました。
どういうものかはおぼろげながら存じておりましたが、
はっきりと書いてくださったおかげで考えをまとめるのに大変役に立ちました。

ご主張の通り、法律、条例は国民、市民が
自らの集団生活を調整するためにあるべきであって、
必要に応じて制度化し、改正し、また廃止すべきですね。
また、政治家の一部にはその一連の作業に長けたものも
必要かもしれませんね。
れぽうp | URL | 2010/03/05/Fri 14:27 [編集]
 お久しぶりです! でも、あんまり内容を信頼しすぎないでくださいね。今、慌てて著作権の本を読み直してるような泥縄状態なのでw この件については、色んな人の意見を読んでみてください。

 別に、JASRACの人たちが鬼畜であるわけではないんですね。まず、契約とか効率とかいったものの積み重ねによってクリエイターの意思が歪められている。その上JASRACの人たちがいつの間にやら私的自治の原則を忘れて、無意識の内に著作権侵害という民法上の不法行為を「犯罪化」しているわけです。そこが私の考える、この問題の本質です。
 また、その点を知らずに、不法行為と犯罪とを混同している人が多いので、議論がややこしくなっていると思います。著作権侵害は、「全て取り締まらねばならないもの」「撲滅せねばならないもの」ではありません。あくまで権利者と侵害者が対話し、侵害の態様や被害に応じて、あるいは許し、あるいは禁じ、あるいは損害賠償などを払わせ、あるいは罰する。それが、権利者の自由意思や、侵害者との対話や、訴訟の中で決まるものです。そこを一律に禁じ、罰しようとするから話がおかしくなる。

 ただ、文化庁は本当にパブコメなどを送っても何一つ聞いてくれないので、泣きそうになることがよくありますw でも、これだけ世間が盛り上がってるのを見ると、諦めるのはいけないと思いました。これからも勉強を続けようと思います。
 コメントありがとうございました!
gase2 | URL | 2010/03/05/Fri 18:37 [編集]
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