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2009年下半期ニコマス二十選 推薦動画詳論 : アイドルマスター 千早 「目が逢う瞬間」
<注意>
 このエントリは特殊な形式に則って書かれていますので、
 「注意事項」のエントリに目を通した上で、以下の文章にお進みください。

 sabishiroP
 

 sabishiroPといえば、「壁に映った昨日」でのブレイクが記憶に新しい。私も文学性の観点からそちらを推薦しようか迷ったが、敢えて彼と出会えた最初の作品である、この「目が逢う瞬間」を推薦する。
 1:23まではタメの段階で、そこから音楽は爆発するのだが、画面は色合いと千早の服しか変わっていない。にも関わらず、千早の目元のアップを一枚挟むだけで、心のギアが一速上がる。ここでセーラー服は過去を、私服は現在を表していると考えるのが順当だろう。ここでは過去と現在、あるいは回想と現実の断絶が起こっていると見てよいのだが、過去の画面が海底のような色に暗く沈んでいるのに対して、現在の画面がまばゆく輝いていることは見逃せない。どこか幻想的な「現在」の画面は、単純に過去と対比した結果の実存的な「現在」とは呼べない「何か」だが、その「何か」と「単純な現在」との齟齬がもたらすただごとでない緊迫感が、1:23からの約90秒間を支えている。
 やがて音楽はもう一つの山場を迎え、2:57に歌が途切れると、荒ぶるドラムの鼓動に乗って、前半ではすっきりと分かれていたセーラー服の千早と私服の千早が、ここでは接近と混濁を始める。打ち砕かれた過去と現在の無数のかけらは、互いにひかれ合い、錯綜し、鳴動する世界の中で一体化しようとさえする。3:02では、ついに過去の世界からセーラー服を着た千早の姿が消える。時の流れは歪み、あざなわれ、3:04で口を閉じた現在の千早の動きを、過去の千早が空虚な笑みを浮かべながらトレースする。そう、ここでこの動画の主体が分かる。現在が過去を忘れられないのではない。妖しい意志を持った過去が主体性を持って、輝く現在を侵食しようとしているのだ。現在が常に過去を「所有している」などというのは、先入観に基づくご都合主義の幻想にすぎない。この現在と過去との脆弱な主従関係の容易な逆転を、この動画は見事に視覚化することに成功しているのである。

私は現在であり 今日を担う者であり 過去の奴隷である

 ――「ウィザードリィ5 災禍の中心」より

 作者のセンスも暴走を始める。3:08の現在の千早が後頭部しか映っていないカットは、研ぎ澄まされた感性の鋭利な刃先だ。それにえぐられる我ら凡愚の感性は痛みさえ感じず、むしろ己が血潮の温かさに生命の脈動を体感するのだ。3:12からは同じ動作を過去と現在が繰り返すが、この回転する動作は示唆的である。哀れな小羊Pの「レプリカーレ」で執拗かつ象徴的に用いられているように、これは輪廻転生のような、終りと始まりが結びついた概念を表すことが多い。そしてこれ以降、過去の千早は一度姿をひそめるのだが、このシークエンスの解釈は難しい。現在の千早が、過去の千早を「振り切った」と見るには、あまりにも超克性の描写に乏しいからだ。回転が象徴する「時は廻るもの」という概念も、一度主導権が現在の千早に戻ることを上手く説明してはくれない。結局、筆者はこのシーンに対して、十分に説得力のある解釈を附することが出来なかったことを告白するより他はない。ただ、自らの読解力の不足を恨むばかりである。
 さて、やがて千早は束の間の「現在」を取り戻したかに見えるが、4:16から再び時間は交錯し、主導権は過去の千早に渡されてしまう。過去の千早は観客に背を向け、ステージを去るべく、ゆっくりと歩き出す。ここで哀歎の情を禁じえないのは、筆者一人ではあるまい。sabishiroP自身の「壁に映った昨日」にしろ、シラカワPの傑作「空想メロウ」にしろ、ある世界で始まって、別の世界を旅した後、元の世界に戻るというのは、二つの世界を扱うMADでは最もよく見られる形式だからだ。となれば、この作品も、過去で始まった以上、過去で終わってしまうのではないか。そんな恐ろしい予感が、身を竦ませる。さやかに光輝く現在は、やはり幻にすぎなかったのか。一見従属的に見える過去こそが本当の主体で、畢竟、現在とは過去に蝕まれゆく未来の始点にすぎないのか――。そんな悔しい思いが胸をかすめる。一歩、また一歩と、遠ざかってゆく千早。だが最後の一歩で、世界は転生する。光に包まれるステージ。過去は浄化され、消滅し、光りあふれる「出口」を大写しにして、この作品は終わる。
 それは一つの救済であり、一つの絶望である。舞い狂った後に過去と現在が「帰ろう」とした場所は同じだった。過去が現在を追いかけて来るのか、それとも現在が過去を追いかけているのか。そこには「過去は序章にすぎない」などというヘーゲル的な時間理解では割り切れない、冷酷な現実がある。過去はいつでも、我々の背後にいる。振り返れば、痴れたようにきょとんとして微笑み返すだけの、その過去という存在が、我々を未来へと駆り立てるものの全てである。人が過去に溺れて前に進めなくなった時も、それに打ち勝って悠然と未来へ向かって歩を進める時も、過去は常に、3:04の千早のように、ほとんど無感情に等しい微笑みだけを浮かべて我々を見つめている。そこには悪意も何もなく、ただ――「食欲」だけがある。決して満たされることのない、飽くなき「食欲」だけが。
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