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アイドルマスター「THE SOUND OF SiLENCE」
 炎のP
 

 「宝野ハルカ」と同じものを感じます。この抑制された表現の向こうに「物語」を見出したい人もいるでしょうが、私はこの表現の向こうには、何もないと思います。
 詳しくは「宝野ハルカ」の二十選詳論でやりますが、批評家のロラン・バルトは、日本の文化を、中心が空虚な「表徴の帝国」と呼びました。これは表現の向こうに必ず「意味」がある、西洋文化の「意味の帝国」と対比されます。
 西洋人が聖書を尊ぶのは、その向こうにある神を信仰しているからです。しかし、日本の知識人の多くには、聖書は文学作品の一種であると受け止められてきました。聖書は本来、神の教えを表現したものであるはずですが、彼らにとって、聖書の向こうにいる神や、神の教えはどうでもいい。それを伝えるイエスの生き様や、イエスによる神の教えの「解釈」とか「たとえ」のほうに関心があるわけです。
 この動画にも、同じものを感じますね。情報を削ぎ落した結果なのか、あるいは最初から「情報」なんてないのか、それは分かりませんが、とりあえず、なんとなく雪が降ってたり、電話に出たくなかったり、後ろ姿を見せてみたり、そんなのが続くわけです。本来なら物語があって、それを表現した結果の雪や、涙に心が動くわけですが、ここでは、表現の向こう側にあるはずの、具体的な物語や意味は見えない。見えないばかりか、存在しないのかもしれない。しかし、そこには不思議な心地よさがあります。
 少なくとも、「何を言いたいのか分からない」という批判は的外れでしょう。ここで表現したいものは、意味ではなく、表現そのものだからです。「涙を流す雪歩の気持ち」に心が動くのではない。物語や意味とのつながりを極端に薄められた、「涙を流す雪歩の姿」そのものが美しいわけです。ここでは通常の「意味が主、表現が従」の関係が逆転しています。「表現が主、意味が従」なのです。そして意味は、ほとんど消滅寸前にまでなっている。
 意味や物語という、本来「表現の向こう側にあるはずのもの」が欠落して、ただ「表現」だけがある。これがバルトのいう「表徴の帝国」で、日本文化全体によく見られる特徴です。俳句なんかも似てるんですが、時間がないのでここでは触れません。しかし、先ほどのエントリにもつながる、重要な特徴です。
 作品において、「意味」が強まり過ぎれば、それは表現というより「言論」になります。逆に「意味」を捨てて「表現」に走ると、こういう作品になります。ただし、この作品は極端に「意味」を捨てたものではなく、しっかりと「意味」や「物語」の香りを残してあるので比較的とっつきやすく、また作品としての質も高いと思います。
 だから自分は、この作品に物語は付けません。ただ、表現だけを楽しもうと思います。

■追記
 炎のPがブログで、一つだけヒントを提示してくれました

動画のほぼ全編に雪が降ってるわけなんですが
1シーンだけ降ってないところがあるのは
それが現実の出来事ではないから、という事です。

 私は全然気付きませんでしたが、言われてみると意味が深まりますね。物語的なものを考える方には、いい手掛かりになると思います。
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