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「企業の社会的責任(CSR)」の正体
 非アイマスです。
 政治・法律の話です。

 以前、「『企業の社会的責任』なんていらない」と記事で書いたら、コメント欄でT_Uさんに「いやいや、企業の社会的責任は必要でしょ」と突っ込まれてしまいました。
 実は、私は今でも「企業の社会的責任」なんていらないと思ってます。ただ、それはおそらくT_Uさんの考える「企業の社会的責任」ではなく、法学上の概念である「企業の社会的責任(CSR)」という概念が非常に曖昧かつ危険であり、いらないと言ってるんですね。で、この問題はとても複雑なので(というかCSRを真正面から批判した学術書を見たことがない)、今までT_Uさんに弁解するために長ーいエントリを書いてたんですが、まとまらなくて放置してました。
 が、今日、その危険性が分かるちょうどいいエントリを弁護士の人が書いてたんで、それを例にとってみましょう。
 ***

 このブログに来る皆さんは当該エントリを読む時間なんてないと思うのでw、誇張して要約すると、次のようになります。

 煙の出ない無煙タバコというものが登場したが、これを飲食店などで自由に吸わせてもよいのだろうか。
 確かに煙が出ないのだから、他人に害はないように思える。しかし、無煙タバコを吸う人間が吐く息の中には微量のニコチンが含まれており、周囲の人間が微量とはいえ受動的にニコチンを吸ってしまうことに変わりはない。それに何より、煙が出なくても、タバコっぽいものをプカプカ吹かしているのをタバコが嫌いな人が見たら、不愉快だろう。
 これを法律や条例で規制するのはさすがに無理だから、企業が無煙タバコを自主規制してもいいだろう。無煙とはいえニコチンは吸っているのだから、そもそも本人の身体には悪いことは変りない。「お客様の健康のため、そして医療費削減のため、当店では無煙タバコも禁止とさせていただきます」とするのが、「企業の社会的責任(CSR)」ではないだろうか。 

 ・・・お分かりいただけだだろうか?w

 要するに、ここで「企業の社会的責任(CSR)」という言葉は、

 これは法律では規制できないから、お前ら企業が自主規制しろ。それがお前たち企業の責任だ。

 という風に使われているわけです。これがどういうことを意味するか分かりますか?
 たとえば巷で話題の、東京都の「非実在少年」規制を、これに当てはめてみるとこうなります。

 表現の自由を法規制することは出来ないから、お前ら企業が自主規制しろ。それがお前たちの責任だ。

 分かりやすいように、もうちょっと装飾を付けてみるとこうです。

 確かに「非実在少年」のポルノといえども、表現の一種であるから、条例で規制することは難しい。しかし、こんなものがそこら中に転がっている状態を、あなたがた出版社は道徳的に社会的に、許されると思うだろうか? 思わないだろ? だったら自主規制しろ。企業は金が儲かるという理由だけで、何でもやっていいわけじゃない。道徳的、倫理的、社会的に正しくあろうとしなければならない。それが企業の社会的責任だ。

 というわけです。

 簡単に言えば、これは「憲法や法律などの上位規範に抵触するために法令で強制できないものを、何らかの形で他人に強制したい」という、政治家や行政機関や圧力団体や一般市民の欲求から生まれたものです。タバコをやめさせたり、腹の立つ猥褻表現を抹殺したくても、それは憲法に定められた人権を侵害してしまうため、法令で強制するのは難しい。そこで「自主規制」を求めるわけですね。たとえば派遣労働も、契約自体は概ね法的に有効ですが、その契約に則って派遣社員が解雇されるのが道徳的に許されないと思うなら、「市民」はこの「企業の社会的責任」を持ち出して企業に圧力を掛けます。そして企業がそれに屈することで、派遣社員が継続雇用されるなどして、目的は達成されるわけです。法を改正することなしに
 これは一見「民主主義的な」社会変革の手段であり、派遣問題くらいに使われているうちには問題は少ないのですが、タバコの規制などに使われると問題が生まれてきます。そもそも法規制や法改正が困難であることを理由に「市民」は行動しているので、企業には、本来この社会的な圧力に従う法的な理由は何もないわけです。しかし、市民たちが求めているのは「道徳的責任」であり、法的には「営業の自由だ」などと言えるのですが、企業には道徳的な対抗概念がありません。「猥褻表現を出版すること」「タバコの受動喫煙を放置すること」が、道徳的社会的にもいいことであると主張することは、企業には大変困難なのです。だから「道徳的社会的責任」を求められると、企業はこれに対抗出来ない。また、それに対する制裁も不買運動や「言論」などの合法的なものなので、「企業の社会的責任」を訴える側の人々を逆に批判することは、法的にも道徳的にも難しい。
 だからタバコでも、猥褻表現でも、本来法律上は規制できないはずのものが、「企業の社会的責任」を掲げることで、企業に強制することができる。いや、それは一見企業にやらせているように見えますけれども、実際には企業を束縛することで、間接的に社会を束縛しようとしているわけです。「みんな、タバコを吸うのをやめよう」と言っても社会が変わらないので、「これはそもそもタバコを売ってる連中や、公共の場で吸わせることを許可してる連中が悪いんだ」ということで、タバコの会社や飲食店に「企業の社会的責任」を求め、タバコは身体に悪いと商品に明記させ、飲食店ではタバコを禁止させることで、タバコを撲滅しようとする。同様に、「児童ポルノなんか買うのはやめよう」といくら言っても世の中が変わらないので、「そんなものを売る奴が悪いんだ」ということで、出版社には「企業の社会的責任」の名の下に「自主規制」を求めるわけです。
 こうして、法的にも道徳的にも正当に見える方法で、世の中が変わって行く。しかし、ここにある種のきな臭さを感じるのは私だけではないでしょう。たとえば健康増進法には、タバコの受動喫煙について、次のように書いてあります。 

第二十五条 学校、体育館、病院、劇場、観覧場、集会場、展示場、百貨店、事務所、官公庁施設、飲食店その他の多数の者が利用する施設を管理する者は、これらを利用する者について、受動喫煙(室内又はこれに準ずる環境において、他人のたばこの煙を吸わされることをいう。)を防止するために必要な措置を講ずるように努めなければならない。

 非常に長いですが、要約すると、「みんなの使う場所では、出来るだけ受動喫煙を防止するように頑張りなさい」という規定で、これを努力義務と言います。つまり、努力さえしていれば、別に実際にそういう措置を講じていなくても、違法ではないんです。が、現実には飲食店は次々に全面的な禁煙措置を取っており、もうほとんど、これらの場所では禁煙が義務になっているようなものです。なんでかというと、これらの場所を提供する団体や企業が、「道徳的社会的責任」を考え出したからです。だから、法律で義務付けられてなくても、勝手にどんどん「自主規制」していきます。そして、実際には法律で規制したのと同じ、あるいはそれ以上の効果を生むことに成功しているわけです。
 
 繰り返しますが、これは公害問題などに使われているうちはまだいいんですが、企業に道徳的社会的責任を求めることで、社会全体を、一般国民を束縛しようとする時、非常に危険な概念になるわけです。全く合法的に、法律で規制できないことを、規制できてしまう。しかも、それはあくまで「自主規制」であるため、憲法で定められた幸福追求権(タバコ)や、表現の自由(猥褻表現)を侵害してても構わないわけです。だって、本人が自分からやめただけなんですから
 現在のところ、この概念を上手く反駁することは、私には出来ません。たとえば戦前の検閲も、多くの人は引っかからないように、自分から政府を持ち上げるようなことを書いたり、危険な部分は削ったりしたわけです。「自主規制」だったわけですね。だからこそ、戦後の憲法では、そういう法律は作ってはいかんということになりました。「法的な制裁が怖くて行う『自主規制』なんか、『自主規制』とは呼べない。ただの強制だ」という考え方からです。それゆえ現状では、法規制は非常に難しい。そこで、世の中をより「清潔に」したいと思う人々は、この「企業の社会的責任」を唱えだしたのですが、これはただの「言論」だし、不買運動も消費者の正当な権利の行使にすぎませんから、まったく問題がない。むしろ「民主主義」というのは、こうやって世の中を変えて行くんだという好ましい例のようにすら見えます。しかし、タバコの徹底的な排斥運動などを見ていると、タバコを吸わない私にも、これは非常に恐ろしいものを秘めているように思えるのです。それが「民主主義」というものの怖さなのか、それを歪めている何かの怖さなのかは、まだ分かりませんが…。
 いずれにしろ、現状では、この「企業の社会的責任」というものを、どこまで求めていいのか、どこまでが「強制」で、どこからが「企業の任意の協力」なのか、そんなところから議論をしていく必要があると思います。そうしないと、この「企業の社会的責任」という言葉は、法律で強制できないことを世の中の人々に強制するための合言葉になってしまい、やがては2ちゃんねるの管理者が不遜な発言を削除するのも、ニコ動の運営が「名誉を毀損する表現が行われている動画」を削除するのも、全部「企業の社会的責任」になりかねません。現在のところ企業による検閲は判例でも通説でも憲法に禁じられた「検閲」には当たらないとされていますから、そうなったら、我々の生活が急速に息苦しくなるのは明らかです。だから、この「企業の社会的責任」の限界を明らかにすることが急務なのです。

 図書館にも書店にも、まだCSRを手放しで礼賛する本しかないので、私ごときには上手くまとめられませんが、大体、こんなところです。権力がキリスト教や儒教などの特定の道徳規範を広めることで、法による規制なしに、人々を抑圧してきたのが厳然たる事実です。
 「企業の社会的責任」の他にも、現在は「消費者の社会的責任」「市民の社会的責任」というものが唱えられており、21世紀の社会において、新しいキリスト教、新しい儒教となる可能性を、私は危惧しています。これらに対しては、その言葉の甘さに惑わされずに、批判的な視点を絶やさないことが必要だと思います。

 以上です。
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労作エントリお疲れ様でした。
僕のいらんことしいのコメントでgase2さんに余計な労力を使わせてしまったようで心苦しくはあるのですが、このような良エントリが生み出されたきっかけになっているとすればうれしく思います。

そして本題について。
確かにこうやってことをわけて説明していただけると納得できる部分が多いですね。
かといって法のほかには道徳などの社会的な圧力が不必要化といえばそのようなわけもなく、結局(世のほかの問題と同じように)クリアカットに二分できる問題ではなくケースバイケースで議論していくしかないということですかね……。
僕もキリスト教的・儒教的倫理観が好きというわけではないのですが、それらが社会を成り立たせているプラス面での影響力をさくっと否定してしまえるほど傲慢にはなれそうもないですし。
T_U | URL | 2010/03/22/Mon 18:00 [編集]
 いえいえ、ただ、これは超難しい問題なので、力及ばず、といった所ですね。言いたかったことだけでも感じてくださいw

 この社会的圧力というものについてはおっしゃる通りで、これを否定してしまったら、民主主義も言論も何もないわけです。だから今はまだ、「これって危ないんじゃないか」としか言えないんですね。そこは情けない限りです。

 法と道徳、自主性と強制の境界、この問題には様々な複雑な事象が絡み合っていて、一言には言えません。陳腐な言葉で申し訳ないんですが、今は「頭から信じず、考えてみましょう」としか言えませんね。
gase2(雅雪P) | URL | 2010/03/22/Mon 19:13 [編集]
はじめましてー。
まずPデビューおめでとうございます!大好きな庭上げPの作品によく宣伝をなさっておられるので、お名前は存じてましたがgase2って「がせつ」って読むんだ・・・と思ったのは内緒です。

さて、この日記の企業の社会的責任ということですが当方がかじってる法律の一つである会社法の学者の間にも昨今の事件を背景に議論があるところですね。
ウチの院の会社法の教授たちにも社会的責任を肯定する教授と、その人を鼻で笑う(表現悪いですが)教授と二通りいるわけですから、要するに分けが分からない領域だと思います。その人の道徳心とか(道徳がない人が一律否定派とはいいませんが)、生活環境などでいくらでも結論が変わるものではないでしょうか。
そして、厄介なのが相手が「社会通念」という無形かつ容易に変化するものであることです。
それどころか、社会的責任なるものを肯定する論を持ち発表している人が「社会通念」であるという保証すらないことも深刻な問題ではないでしょうか。

関連はしますけど少し話がそれるのは「卑怯な言論」というものの存在です。
例えば「人を殺してはいけない」ということは誰でも叫ぶことができ、それは叫んだ人の名誉も何も傷つけることはありません。
ところが、いわゆる二次元規制はどうでしょうか。
実写の児童ポルノレベルならまだしも「非実在少年」規制のように反対を公然と叫べばその人が後ろ指刺されるような、ようするに相手にレッテルを貼る契機を与える論はそもそも正当な言論(民主主義)とはいえない面があります。
この点は憲法論としても一つの議論があるところですが、企業の社会的責任の議論においてもこれを学者や弁護士などの何を言っても許されて後ろ指さされない身分を持たない人が公然と反対論を持ち出すのは非常に難しいと思います。
このように、対等に反論ができないことを一部では「卑怯な言論」というわけです。

何が言いたいかというと、一度声の大きい集団があることを叫んでそれが一見正義に見えてしまえば、事後的にそれを否定するのは難しいということです。
少なくとも、公害事件のようなものが社会問題化した時節以降に公害のような問題を突きつけられて社会的責任を否定する発言を堂々とできる人がいるでしょうか、特に今の日本のメディアに・・・
声が大きい人(もといメディア)が現在の状態では反対論を築くのも一苦労でしょう。

・・・我ながら何が言いたいのか分からなくなった上にすさまじい長々文になってしまい申し訳ないです。
でも、このような問題意識をブログという形であれ表明することはこれから重要になると思います。
匿名という、ネット社会の諸刃の剣のいい面として卑怯な言論の対抗手段として重要ですから。

最後になりましたが次の能もマッテマスヨー。
マルチP | URL | 2010/03/23/Tue 00:52 [編集]
■マルチPへ

 こんにちは! 私はCSRを肯定的に分析したものしか読んだことがないので、このエントリはそれらに対する反感で、かなり一方的な主張で申し訳ないことになってます。法律に詳しい方が読まれたのなら、色々突っ込みたいところはあったと思いますが、紳士的にコメントしてくださってありがとうございますw

 「卑怯な言論」ですか。私はアカデミックな法律論は真面目に勉強してないので、非常にためになりますw そういう見方は面白いですね。この「胡散臭さは分かってるんだけど、その正体が分からない」という問題の解決の手掛かりになりそうです。言論のあり方そのものが、憲法の考え方とぶつかるところがあるかもしれない、ということでしょうか。
 たとえば日本との文化が極度に違う民族Aがいて、その文化に対する反感が社会で確立しているとしたら、「A人が会社にいると迷惑だから、就職を自粛せよ」という社会的圧力があって、それによってA人が就職を自粛したら「自粛だからいいじゃないか」とは当然言えないわけです。これは当然に憲法14条1項に反するし、民法上も不法行為だと思いますが、それと禁煙ファシズムとの境界はどこにあるのか? あるいはないのか? ないとしても、両者はどれくらい離れているのか? 非常に難しい問題だと思います。

 でも、「最近は法律家=CSRの信奉者」というイメージが強かったので、決してそう思ってる人ばっかりじゃないというのは、大変力になりますw 私も頑張って法律の勉強を続けて、CSRの限界を探りたいと思ってます。
 あと、動画も頑張りますw 次は「踊り」ませんがw

 コメントありがとうございました!
gase2(雅雪P) | URL | 2010/03/23/Tue 02:06 [編集]
勉強になりました
政治的、法的なCSRについての考え方に触れられてよかったです。
CSRについて賛成・反対を言えるほどの知識を持っていないのですが一言。
経済的に言うとCSRはグローバリゼーションの文脈で使われていると思われます。
経済の世界的統合はヒト、モノ、カネの流動性を高めるためいわゆるグローバル企業の活動が国家や地域を飛び越えてその影響を広範に及ぼすことになる。なので、その時に「海外であまりひどいと思われることしないでね」ぐらいの意味だと思ってました。
 この問題は海外に限らない。GMの社長だかCEOだかがGMはグローバル企業だからアメリカのことばかり考えてられませんというような発言をしたことがあったのですが、もはや企業の活動がその国にプラスとなるかどうかわかりませんという含意がある言葉だと思います。企業の発展がそれすなわちその国の発展になった、あるいはなっていると思われた時代は過ぎてしまったようで「会社は利益追求が目的です」というあたりまえといえばあたりまえのことに気づかされる。ウォールストリートで働く人々にCSRといっても酔っ払いとして扱われるのがオチです。とはいえそれこそグローバル化によって一国経済のグラつきが金融危機のように一気に世界に広まることも事実で、その時に「お前らちょっと待て」と言えるような状況がほしい、とも思うんですね。それがCSRという概念である必要はないんですが。ちなみに経済的な文脈でのCSRへの反応はかなり微妙です。私がそう思ってるだけかもしれませんが「効果あるのかなぁ?」というぐらいです。

 能からここにきてこのような議論を観ることができるとは雅雪さんは多才だなあと驚きました。私ももっと社会について勉強したいと思います。能についてもホントに、すごく興味持ちました。応援してます。
ゴド― | URL | 2010/03/29/Mon 00:41 [編集]
■ゴドーさんへ

 こんにちは。コメントありがとうございます。

>勉強になりました
 いや、これは要約すれば「CSRについてもっと考えようぜ」と言ってるだけであって、特にこれといった法律論にもなってないので、あんまり信用しないでくださいねw
 CSR礼賛本を読んでると頭がクラクラしてくるんですが、まずは向こうの主張を整理することから始めないといけません。「CSRなんて馬鹿らしいよね」と内輪で言ってる間に、この概念はどんどん拡散してますので…。耳あたりのいい字面も、それに貢献してると思います。

 また、CSRの本に出てくる企業人たちがみんな、優しそうに微笑みながら、口を揃えて「やっぱり利益追求だけじゃ駄目ですよね」と言ってるのを見てると、何かこれは嫌だなあという気がしますね。もちろん「企業が儲けた分だけ、社会は喜んでるんだ。正当な対価を受け取ってるだけなんだから」みたいに居直られても困るんですが、ここまで精神的な概念になっていると、なんというか、一種の宗教じみたものを感じるというか…。
 私も現代人の例に漏れず、労働に対する考え方は「そこそこ暮らしていければいい」くらいのスタンスなんで、企業万歳では全くないんですが、何か違和感を感じてしまうので、知識も何もない現時点での感想というかつぶやきというか、それがまあ、こんな感じです。

 まあ、まずはCSRの分類からかなと思います。
 たとえば公害なら、社会に大して企業活動が強制的に害を押し付けるわけですから分かりやすいんですが、これが禁煙の推進だと、非喫煙者に対するサービスになる一方で、喫煙者に対する制約としても働くので、「全体の利益」のために少数者の権利を侵害しているわけだから、企業はむしろ慎重にならなければいけないのではないか。つまり制約を受けるのが企業自身ならそれほど問題はないんですが、企業の「自主規制」によって他者の権利が侵害されるなら、企業はむしろ、そのような不当な社会的圧力に抵抗しなければいけないのかもしれない。その抵抗こそが「企業の社会的責任」だと捉え直すこともできそうです。
 ただ、この場合でも、たとえばタバコを吸う権利だとか、ポルノを買う権利だとかいうのは、それらを「自主規制」させようとする「道徳」に対して一方的に弱い立場にいるので、なんとか道徳上の対抗概念が欲しい気もします。また、そもそも法というのは「道徳」などの非法律的な概念による不当な社会的圧力に対抗するための手段なのであって、法で認められた権利の行使を、道徳の名の下に「自粛」するよう社会的圧力を掛けることは、程度によっては道徳による法の領域の侵犯に成り得るものであり、この点において法と道徳は緊張関係にあるのかなとも思います。
 つまり表現規制なんかを推進する人々は、「俺たちは法規制なんか求めてない。ただ、『道徳的、社会的責任』を考えて、自主規制すべきだと言ってるんだ」と主張してるんですが、この人たちは「法は憲法によって制限されるが、道徳は法ではないのだから、その実現を求める社会的圧力は『強制』にならない限り、憲法や法令によって制限されない。だから『自主規制』を求める分にはなんら法令を侵害していないんだ」というような考え方をしてる場合が多いです。それは確かに「民主主義」かもしれませんが、ここで重要なのは、おそらく「自主性」というものと「強制」というものの差だと思います。その境界を探ることが重要だと思ってます。

 しかし、現実には法律上の権利を行使しないよう社会的圧力を掛けて組織や個人に迫ることが出来ないと困ることは多いです。典型的なのが国会で、「世論には法的拘束力なんて一切ない。だから世論なんて気にせず、好きな法案をどんどん議決したらいい」という人を最近見ますが、これはとんでもない話で、それでは国民の「主権」はどこかに消えてしまっています。選挙によって国民が主権を国会議員に譲渡し、次の選挙まで国民に主権は存在せず、国会は一切国民の意見なんて聞かなくてよいなどというのは無茶苦茶であって、選挙後も主権は国民にあるはずです。だから国会が一定程度世論を気にするのは当たり前であって、「聞くべき法的理由はない」なんてのは詭弁です。もちろん全部聞く必要も当然ないんですが、全ては程度の問題ということですね。
 そんなこんなで社会的圧力も、どのような目的ならどの程度許されるのか、社会的圧力はどの程度までが「自主規制」を求めるもので、どこら辺から「強制」になるのか、などの分類や精査が必須だと思ってます。

>能についてもホントに、すごく興味持ちました。
 あの動画はホント、あんまり騒がれたり褒められたりしたんで、その後何度も自分で見直したんですが、ただのヘタクソにしか見えなくて困ってますw 次にやる時は猛練習して、是非生まれ変わった姿をお見せしたいですねw 「上手くなりたい!」という向上心が生まれたという意味では、大変有り難い経験をさせてもらったと思ってます。

 では、ありがとうございました!
gase2(雅雪P) | URL | 2010/03/29/Mon 18:47 [編集]
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