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2009年下半期ニコマス二十選 推薦動画詳論 : アイドルマスター サクラ大戦 「御旗のもとに」全面改訂版
<注意>
 このエントリは特殊な形式に則って書かれていますので、
 「注意事項」のエントリに目を通した上で、以下の文章にお進みください。

 ぴっかりP
 

 えこPの「ロケットガール」以来、「いかにアイドルたちをゲーム中のステージから解放するか」というテーマが、ニコマスPVの大きなテーマの一つだったように思う。それは七夕革命を経て一つの大きな流れを形成するが、同じくえこPの「私は忍者」「魔法をかけて」に代表される「ステージ上でどれだけ面白いことをするか」について、ぴっかりPは一つの新しい形を示した。といっても、実はぴっかりPはデビューから約一年半に渡って、「サクラ大戦の曲を使ったステージ系PV」だけを無骨に作り続けてきた、まさに職人中の職人なのである。サクラ大戦のイメージをアイマスで再現するため、彼が燃やし続けたその執念はすさまじく、この「御旗のもとに 全面改訂版」に至って、「ステージ系PVは過去の形式」という素人の私の中にこびりついていた最後の邪念が消し飛んだ。「ステージ上に5人いたらいいな」「あのキャラが3Dで踊ってくれたらいいな」などなど、誰もが一度は思い浮かべる「夢」を、彼はステージ上に詰め込み、そして、花開かせてくれたのである。
 しかし彼の場合、まず技術があって、それを披露するのではない。見せたい絵があって、そのために技術を使うのだ。だからこの作品において、我々はそこに使われている技術に驚くのではなく、その実現された画像に驚くのだ。この思想は五人が見せるダンスのフォーメーションにおいて最も真価を発揮する。これまでも四人以上が一つの画面上で踊る動画はあったが、そのほとんどは、同時に同じダンスを踊るものであり、「沢山の人間が踊っている」という壮観で視聴者を圧倒することを狙うものが多かった。これはayakanP(仮名)の「娘々サービスメドレー」や、まんまPの「スーパーアイドルマスターOG ORIGINAL GENERATIONS」などの名作でも同様である。
 しかし、ぴっかりPがこの作品で強く強調するのは、2:17からの一連のシークエンスに見られる「ダンスをずらすことによって生まれる面白さ」である。これはけまり部Pも得意とする技であって、けっしてぴっかりPの専売特許ではないが、この作品では彼なりの独特な使い方をしており、その効果は抜群だ。まず2:20では一定間隔で動きをずらすことによって、伝言ゲームのように同じ所作が連鎖していく面白さがある。そしてその後のダンスでは、五人が同じ動きをするのだが、若干センターの美希の動きが、他の四人に先行している。このことによって、あたかも実際のステージで「四人がセンターの美希の動きを見ながら動いている」かのようなタイムラグが生ずるのだ。この「ずれ」が生じることによって、驚くべきことに、五人の動きが、全く同じタイミングで動くよりも美しく見えるのである。2:27からの、穏やかな風にたなびくかのような、五人のやさしい手の動きはどうだろう。これが人間の感性というものなのかもしれない。北朝鮮のマスゲームのような、人間性を抹殺することで得られた機械的な動きの集合に我々はさしたる美を感じないが、オーケストラのバイオリンのように、少しずつ異なった、しかしどれも磨きあげられた音の束には、比類ない美しさを感じる。その「人間的美しさ」のかけらを、ぴっかりPはステージ系MADにも持ち込んでくれたのかもしれない。

 これらの建物の各部材には、どこにも規格にはまったものはありませんのや。千個もある斗にしても、並んだ柱にしても同じものは一本もありませんのや。よく見ましたら、それぞれが不揃いなのがわかりまっせ。どれもみんな職人が精魂を込めて造ったものです。それがあの自然のなかに美しく建ってまっしゃろ。不揃いながら調和が取れてますのや。すべてを規格品で、みんな同じものが並んでもこの美しさはできませんで。不揃いやからいいんです。
 人間も同じです。自然には一つとして同じものがないんですから、それを調和させていくのがわれわれの知恵です。

 西岡常一(宮大工)1908-1995

 そしてこの動画最大の見せ場、3:07からのシークエンスがやってくる。五人が踊るのは同じ「目が逢う瞬間」のダンスなのだが、他の四人に対して、センターの美希だけ、踊っている箇所が全く違う。そして美希だけが後方へ下がり、「立つ勇姿?♪」の歌に合わせて四人が二度胸をこするような動作をした後に両腕を前に出すのだが、美希も二度頬を撫でるような動作をした後、片腕を前に出すのである! これはもう奇跡だ。同じ曲のダンスの中からあるタイミングで非常によく似た動きを三回連続でする箇所を探し出し、それを四人と一人に割り振る。その結果、四人が同じ動きで一種の「バックダンサー」を形成しつつも、センターである美希は「よく似ているが別の動き」で他の四人に「合わせた」後、一人列を離れ、後方の闇へと消えていくのである。
 先程「ずれ」の美しさについて書いたが、これはもう「ずれ」どころではない「独立」の動きだ。3:07から3:19までの間、美希は他の四人とは全く別個の、独立した存在として振る舞う。普通に考えれば、それは美希に他の四人とは全く異なるダンスをさせればいいだけだ。しかしそれでは、ただダンスが違うだけで、美希が一人で「孤立」しているにすぎない。この動画のすごいところは、美希を他の四人から「独立」させつつ、3:10からの三回の動きでは他の四人に違う動きで「シンクロ」させたことだ。時に「独立」で動き、時に他の四人に「合わせる」。それが出来るということは、要するに、生きているということだ。この美希は生きている! だからこそこのシークエンスから得られる感動はあたたかく、そこには血の通ったぬくもりがあるのだ。嗚呼、ぴっかりP万歳! 人間万歳!
 だが我々は、やがて恐ろしい現実にも気付く。3:07から3:19までの一連のシークエンスにおいて、美希と四人の二種類のダンスは、一度も編集されていない。長回しなのだ。なんのことはない。美希は死んでいた。「合わせた」わけでもなんでもなかった。美希は、3Dのポリゴンで描かれた、二次元の「映像」だった。美希は死んでいた。美希は死んでいる。動画の中で、生き生きと、踊り、歌う、この美希は――そう、死んでいるのである。

 「キャラ」は、一種の記号にすぎない。映像に過ぎない。あるいは、概念に過ぎない。しかし、我々「オタク」と呼ばれる化外の民は、それが命を持った存在であるかのように、愛する。自分が抱きしめたいと願う相手が、命を持った存在ではないと知りながら。この相反する感情の相克が、この動画のステージ上では見事に表現されている(ぴっかりPがそれを表現しようとした、という意味ではない)。愛しているが死んでいるのか、死んでいるから愛しているのか。その忌むべき歪んだ愛情にも美しい側面があるとすれば、それはこの動画の中にある。死んでいるが、生きている。それが「キャラ」というものだ。生きているが、死んでいる。それが二次元というものだ!
 ああしかし、二次元とは、なんと儚くも、美しい夢なのだろうか。永遠にこの夢の中にいたいと思うことは一度や二度ではないが、しかし、それは人間としての死以外を意味しない。この動画のもつ温かさと、同時に持つ切なさ。その切なさの方を噛みしめて、我々は、未来へと向かって進んで行くべきだ。
 さあ、行くと決まったら、歌おうじゃないか。丁度いい歌がある。曲の始まりは、そう、確かこうだった――。

 立ていざ立ち上がれ 涙拭き
 イバラの道さえ 突き進む――
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