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世阿弥に訊け! ?「幽玄」とは何か?
 みなさん、こんにちは。
 今回はニコマスとは特に関係ないんですが、能楽論でよく話題になる「幽玄」について、ちょっと語ってみたいと思います。
 え、小難しそうだから読むのやめたいって?w
 まあまあ、そうおっしゃらずにw
 世阿弥の考え方は、びっくりするほど簡単かつ単純(シンプル)なので、驚かれると思いますよ。
 さて、みなさんは「幽玄」と聞いて、どんなものを思い浮かべますか?
 能と言えば幽玄、幽玄と言えば能ですが、意外と、「幽玄」という言葉は難しいものだと思われがちです。
 みなさんの中にも、「能独特の幻想的な美」とか、「老齢の達人にしか表せない『味わい』」とか、そういうものを思い浮かべる人が多いと思います。
 でも、世阿弥の時代の言葉でいう「幽玄」というのは、もっと単純なものなんです。
 彼は『風姿花伝』の中で、次のように述べています。

まづ童形なれば、何としたるも幽玄なり。


 これを意訳すると、大体次のような感じです。

とにかく幼い少年であれば、それだけで幽玄である。


 ・・・ね? 笑うでしょ?w
 要するに「幽玄」とは、何も難しいことではなく、幼い美少年が舞台に出てきた時の「あ、かわいい!」という自然な人間の心の動き、それこそが幽玄なのです
 今でいうジャニーズ系やショタ系のよさでしょうかね。

 他には、「女御・更衣・遊女・好色(=美女のこと)・美男・花」と並べて、「そのかたち幽玄のものなり」と述べています。
 要するに、可愛い女の子とか、美少年・美青年とか、花とか、そういうものの美しさやかわいさ、それらをまとめて「幽玄」と言っているわけです。
 ね、簡単でしょ?
 当時の「幽玄」は「優美」に近いという人もいますが、私個人は、今で言う「綺麗」と「かわいい」を足して二で割り、ちょっと化粧した程度の意味しかなかったのではないかと思っています。
 
 では、現代の能でよく絶賛されている、年を取った役者の演技はどうなのでしょうか?
 世阿弥は、五十歳を越えたあたりの役者の心構えについて、次のように述べています。

このころよりは、おほかた、せぬならでは手だてあるまじ。


 これも意訳すると、こんな感じです。

このくらいの年齢になると、舞台に立たないのが一番である。


 バッサリですねw これに続けて、「麒麟も老いては駑馬に劣る」とまで言っています。当時の能では、高齢の役者が演ずる能などというのは、とても見れたものではなかったようです。
 ただしこの後、それでも父・観阿弥は老齢になっても「花」が残っていた例外であるとして、「まことにえたらん能者」であると褒めちぎっています。

 ***

 能は江戸時代にかなり改変されているので、現在の能と、当時の能を並べて論ずることには無理があります。論じて論じられないものでもないのですが、このブログで語るにはちょっと専門的すぎるでしょう。
 もちろん、一生をかけて極め、六十才前後でようやく淡い光を放ち始めるような、そんな今の能も、素晴らしいものだとは思います。
 ただ、自分としては、世阿弥の時代の能――少年の美しさを素直に「幽玄」として認め、前面に押し出すような能――のほうに、より心が動いてしまいます。

 思うに、今我々が楽しんでいるニコマスは、文化として非常に幸福な状況にあると思います。
 面白ければ笑う。分からなければ動画を去る。分からない人が多ければ、動画は再生数が少ないままだし、分かる人が多ければ、再生数は膨らむ。
 この単純な淘汰の世界を、我々は当たり前として受け止めていますが、現在の能は家元の制度もあって、そんな自然な新陳代謝とは無縁の世界です。私が能をやめた理由の一つでもあります。
 年老いた人間国宝の体の「揺れ」をいちいち「心理描写」などと言ってありがたがるような現代の能は、深遠微妙な芸術の極北であると同時に、なにか歪んだ進化を遂げてしまったガラパゴス島の珍鳥のようにも思えてしまうのです。
 それは、現代の西洋美術にも言えることかもしれません。疲弊した芸術は、みな同じ道をたどっていくのでしょうか?

 今、我々は、「面白いとは何か?」などといった抽象論に煩わされることなく、動画を楽しんでいます。それはとても幸福なことであり、それでいいのだと思います。
 私はこの一つの文化の絶頂期を目撃し、味わい、楽しみ、たまに涙をながし・・・とても幸せです。あまつさえ、たまに尊敬する架空戦記Pがブログに来てくれますw そして何より、彼らと同じ時代を生きているのです。それを誇りに感じています。

 ニコマスも、やがては衰退するでしょう。
 その末路は、能や西洋芸術と同じなのでしょうか?
 ・・・でも、芥川龍之介なら、違うといってくれるかもしれません。
 彼の言葉を引用して、このエントリは終わりにしましょう。

 シェクスピイアも、ゲエテも、李太白も、近松門左衛門も滅びるであろう。しかし芸術は民衆の中に必ず種子を残している。わたしは大正十二年に「たとえ玉は砕けても、瓦は砕けない」と云うことを書いた。この確信は今日でも未だに少しも揺がずにいる。

 ――芥川龍之介


 まとまらない文章、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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異論
能とは「シテ」(俳優)が演じるものです。

子供は子供なだけで幽玄ですが
大人の俳優が子供の役を演じるとき、
その幽玄を体現しなければなりません。
役が美女であってもしかり
能の世界はながく女人禁制で男が演じます。
幽玄とは、自分ならざるものを体現する。
つまり、演じることの極意です。
monkeyshadow | URL | 2011/05/30/Mon 18:30 [編集]
これは今読み直すと、ちと(かなり)恥ずかしい記事ですね。
無知とはおそろしい・・・。
雅雪P | URL | 2015/12/28/Mon 01:48 [編集]
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