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【アイマス×FM1】 『@ Minefield』 mission-21(Epart)
 テンダスP
 

 9:01からの演出は、定番ですが、分かってても、肌がザッと少しだけ粟立ってしまいました。なんというか・・・まあ、あんまり言葉にする必要もないですねw
 かつて、人の死を壮大に演出する時代があり、そうかと思えば「いやいや、人が死ぬ時はもっとあっさりしてるもんだ」というリアル志向があり・・・最近はまた、劇的なものに戻って来た気もしますね。

 あんまり関係ない話ですが、宝生流の能の「井筒」に、こんな一節があります。

つつ井筒 井筒にかけし まろがたけ
 生ひにけらしな 生ひにけるぞや

 これは伊勢物語に出てくる有名な和歌の改変ですが、それが、観世流の謡本では、漢字の表記が違っていて、次のようになっています。

つつ井筒 井筒にかけし まろがたけ
 生ひにけらしな 老いにけるぞや

 宝生流で「生ひ」になってるものが、観世流では「老い」になってるわけですね。
 私はこれを見て、昔の一般庶民はあまり漢字が分からなかったわけだから、そういった人たちにとっては、生きることも、年老いることも、同じ「おい」にすぎないのかな、と思ったことがあります。

 「生きるって素晴らしい!」みたいな作品を見ていると、なんだか宗教臭くて嫌だなと思うことがありますが、それは自分のこういった体験から、「死生不二」「死生一如」のような思想があるからかもしれないですね。
 「死は醜く、生こそが美しいのだ」と言っているうちは、結局、生すらも肯定することはできないのではないでしょうか。ある人が死んだということは、結局その人が生きたということであり・・・また、生きたということは、死んだということでもあります。

 この動画でポルンガが語る両義的な思想を読んでいると、そんなことを考えてしまいました。
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